国内初となるパラサイクリングの国際大会
リオに向け弾みをつけた日本チーム
去年10月、国内初となるパラサイクリングの国際大会「2015ジャパンパラサイクリングカップ」が、静岡県伊豆市の日本サイクルスポーツセンターにある「伊豆ベロドローム」で開催された。
パラサイクリングとは障害者の自転車競技。バンクを使ったトラック種目と屋外の舗装路を走るロード種目があり、四肢障害(切断、機能障害)や下半身不随、脳性麻痺、視覚障害など障害の種類や度合いによってクラス分けされる。1984年からパラリンピックにも採用されている競技だ。
同大会には日本を含む8ヵ国40組が参加。海外から世界選手権優勝者や、世界記録保持者も出場する豪華な顔ぶれとなった。
大会を主催する一般社団法人日本パラサイクリング連盟は、選手の育成を中心に、国際大会への派遣や国内大会の開催などパラサイクリングの普及振興活動を行っている。理事長を務める権丈泰巳氏は、前身の日本障害者自転車協会時代からスタッフとして長年パラサイクリングに携わってきた。これまでスタッフの少なさや資金面などで、なかなか開催までこぎつけられなかった国際大会だが、ついに実現した経緯をこう説明する。
「まずはJKAの補助を受けられたことが大きいですね。あとはスポンサーさんの支援と、地元の協力をいただくことができたので。これだけの規模の大会が開催できたことは、本当に有難く嬉しい限りです」
今回の国際大会ついて権丈理事長は、「長期的には2020年の東京パラリンピックを見据え、選手に経験を積ませることや、新しい人材の発掘という目的もありますが、なにより2016年のリオデジャネイロ・パラリンピックの出場権に関わる大会になりますので、少しでも多くのポイント獲得を狙っています」。
現在すでに日本は、リオの出場権を男女1枠ずつ獲得。今年3月のトラック世界選手権が最後のポイント対象大会となり、そこで各国の最終的な出場枠が決定する。日本チームの目標は「男子3枠、女子2枠くらいで、計5名ほど派遣できれば」。
実は日本チームにはパラリンピックメダリストや世界選手権優勝者が3組もいる。北京・ロンドン2大会でメダルを獲得し、去年の世界選手権ロードレースで優勝を果たした藤田征樹、北京パラリンピック金メダリストの石井雅史、2014世界選手権ロードタイムトライアルでアジア勢初のチャンピオンに輝いた鹿沼由理恵・田中まい。
彼らは現在の日本チームを牽引する大黒柱。世界選手権やワールドカップで成績を出し、リオに向けてのポイントの積み上げに貢献している。もちろん出場が決まれば、リオでの活躍も大いに期待される選手たちだ。
国内初の国際大会となった今大会でも、日本チームは軒並み表彰台に上がり、ポイントを獲得。佳境を迎えたリオへの戦いに、いっそう弾みをつける形となった。
近況の選手たちの活躍に加え、イベントなどにも積極的に参加していることもあり、これまでよりパラサイクリングへの注目度は確実に上がっている。パラサイクリングをやってみたいという若い世代の問い合わせも増えているという。体験を希望する人には、権丈理事長自ら一緒に走り、指導を行う。
権丈理事長は「自転車は片脚でも十分乗れますし、手で漕ぐハンドバイクや三輪自転車、タンデムなど障害に合わせて自転車のタイプはいろいろあります。できないことではなく、できることを一緒に探して、まずは自転車の楽しみを知ってもらうことを大切にしています」と話す。
自分にないもの、失ったものを見るのではなく、今あるもの、今できることを探す。自分の可能性を信じて挑戦を続ける選手たちの姿から、創意工夫で自らの人生を切り拓くことに、健常者も障害者もないのだと改めて気づかされる。
一歩踏み出す勇気を持てば、人は誰でも輝ける。
藤田征樹
大学生のときに交通事故で両下腿を失った藤田。当時、トライアスロンに打ち込んでいた藤田は「このまま諦めたくない」と、義足を付け再びレースへの復帰を果たす。力試しのつもりで出場したパラサイクリングの大会でスタッフの目に留まり、自転車競技の世界へと進む。
自転車競技を始めて1年半で出場した北京では、トラック・ロード合わせて3つのメダルを獲得する非凡な才能を見せた。藤田にとってこれが大きな転機となる。「もっと高みを目指したい。自転車選手としてどこまで成長できるのか自分を試したい」そう強く感じ、これまで以上に
本格的に自転車競技にのめり込んでいった。
北京後に変更となったクラス分けは、藤田にとっては「ボクシングに例えれば階級が一つ上がったようなもの」となり、苦戦を強いられることに。しかし、ロードを中心に中長距離選手としてシフトしていくことに活路を見出し、トレーニングも見直した。その結果、ロンドンパラリンピックではロードタイムトライアルで銅メダルを獲得。さらに去年のロード世界選手権では自身初の金メダルも手にした。
今年のリオでは3大会連続となるメダルの重圧も大きいが、藤田は力強く言う。
「選手としてリオで勝つことは最大の仕事ですし、それが自分の役割。そこはしっかり自覚してチームを引っ張っていきたい」
石井雅史
競輪選手として活躍していた石井は、練習中の事故で脳外傷を負い、身体の麻痺、感覚障害や記憶障害などが生じる高次脳機能障害と診断された。事故からの3、4年間は自分の年齢すら言えないような状態だったという。
2004年に競輪選手を引退後も、自転車への思いを諦めきれずにいた石井は、パラサイクリングの存在を知る。医師と相談し、2年間身体の回復を待ったのち、2006年にパラサイクリングの選手として競技に復帰を果たす。そこからはまさにとんとん拍子の勢いで、数々のメダル獲得や世界記録更新を達成していった。
石井は当時を振り返りながら言う。
「今こうやって生き生きとしていられるのは、パラサイクリングに出会って、やりがいを持つことができたから。自分にもチャレンジできることがあるんだって。それがなかったら、間違いなく引きこもりになっていたでしょうね」
潤風満帆な競技生活を送っていた2009年、イタリアでのレースで骨折や肺を損傷する大怪我を負い、長期の入院生活を送った。引退も頭をよぎったが、再び不屈の精神で戻ってきた。
今年44歳のベテランは、まだまだ熱い闘志を燃やす。
「常にベストタイムが出せる状態であれば、年齢は関係ないと思っています。ロンドンではちょっと苦い思いをしたので、リオでは表彰台を狙って。やっぱり結果を出せてこそだと思うので」
鹿沼由理恵・田中まい
鹿沼と田中はタンデムという2人乗りの自転車を使って競技を行う。パイロットと呼ばれる健常者選手の田中が前に乗り、視覚障害を持つ鹿沼が後ろに乗る。
クロスカントリースキーで、バンクーバーパラリンピックにも出場した鹿沼だが、練習中の怪我でスキーを断念。同じクロスカントリーの外国人選手が自転車競技でも活躍していると聞き、興味を持った鹿沼はすぐにパラサイクリングの門を叩いた。
鹿沼のパイロットを探していると声をかけられたのは、田中がまだ競輪学校にいるときだった。それまでタンデムには乗ったことがなかったが、思い切ってパイロットへの挑戦を決めた。
2013年からペアを組んだ2人だが、この2年の間に世界チャンピオンのタイトルまで手に入れた。互いの息の合わせ方を訊くと、「合わせることに意識しすぎると逆に合わなかったりする。私は前でハンドルを握っているので好きなように進めるし、後ろの鹿沼さんが合わせてくれている感じかな」と話す田中に対して、鹿沼は「田中さんに合わせれば絶対に勝てると信じているので」と絶大な信頼を置く。
これまで日本の女子でパラリンピックに出場した選手はいない。リオが決まれば、日本パラサイクリング界の新しい歴史となる。
鹿沼はバンクーバーでの苦い経験を糧に「リオではここに向けて全てをやってきたと思えるように、自信を持ってスタートラインに立ちたい」。
競輪選手である田中は、パラサイクリングとの両立に葛藤したこともあったが、その表情にもう迷いはない。
「いろいろ悩んで今ここにいる。自分次第で競輪にもきっと繋げていけると思えたので、今しかできないことをしようと。リオに向かって鹿沼さんと一緒に頑張ります」
トラック種目が行われた伊豆ベロドローム
バンク内のビット
3km個人追い抜きで優勝の藤田征樹
4km個人追い抜きで優勝の石井雅史
3km個人追い抜きで優勝の鹿沼由理恵・田中まい
表彰式
ポーランドの世界チャンピオンも来日
日本代表チーム
レースの合間にはパラサイクリング体験会も行われた
一般社団法人日本パラサイクリング連盟の権丈泰巳理事長