インタビュー

『俺はこれで生きている』
今回のテーマは、競輪に対するこだわりや、競輪競走を走るポリシーなどにポイントを置いたインタビューです。
第1回目は、牛山貴広選手。競輪選手を目指そうと思ったきっかけや、大ケガの話。
そして、今、追い込みとして目指していることなどを話していただきました。
少しずつ先行選手に信頼してもらえるように頑張っていきます
─牛山貴広選手が競輪選手を目指した理由はどのようなことでした?
「もともと競輪っていうのは、たぶん小さい頃から知ってたんです。あとで弟に言われてわかったんですけど、小学校の卒業文集に将来の夢はオリンピック出場と競輪選手って書いていたので。僕は長野県原村出身なんですけど、昔よく選手が合宿にきていたんですよね。それで見ていて『ああこういう仕事があるんだ』って知ったんだと思うんですけど」
─その頃から競輪をやってみたいという気持ちがあったわけですね。
「そうですね。でも、スケートをやっていたので、それでまずはオリンピックを目指そうと思っていました。体を動かすことをやってきたので、職業として競輪選手っていうのはずっと気にしていたと思います」
─そこから再び競輪選手を目指そうと思ったのはいつぐらいだったんですか?
「年齢制限が自分の時はまだあったんですけど、特別選抜(競輪学校の)で2005年世界オールラウンドスピードスケート選手権大会の500m優勝で権利が取れたんですよ、年齢制限は超えていたんですけど。それで権利が取れたので受けようと、その時はもうちゃんと決めていましたね」
─その当時は練習などで自転車には乗られていたのでしょうか。
「はい、乗っていました」
─自転車にはそんなに違和感はなかった?
「バンク自体は乗ったことがなかったですけど、ロードレーサーで街道に行ったりとか、トレーニングとしては使っていました」
─それから競輪学校に入られるわけですけど、師匠の武田豊樹選手との出会いというのは?
「オリンピックの時に橋本聖子さんが応援にいらしていて、競輪をやりたいですということで話をして、それで紹介していただきました」
─初めて武田選手に会われた時の印象は?
「一応、スケートでも一年間は遠征がかぶっていたので以前から知っていました。武田さんは自分のことを覚えていなかったんですけど、自分は覚えていたので」
─武田選手はどんな師匠ですか?
「やっぱり厳しかったですね。特に、自分も社会人をやったとはいえないくらい、2年くらいは一応契約社員でスケートで世界を見ましたけど、一からそういう人間的なことというか、生活面ではかなりいろいろと見てもらったと思います」
─今の牛山選手があるのは武田選手のお陰というところもある?
「そうですね、もう間違いなくあると思います。それは生活面も競技の方も、競輪の今があるのもあの頃ちゃんとやってもらったからだと思います」
─もし武田選手に出会っていなければ全然違う感じになっていた?
「ああ、ダメだったと思いますね、たぶん(笑)。それは何となくわかります」
─現在の練習環境というのはどんな感じなんでしょうか。
「今は基本的には自分で計画を立ててやっています。まあ、バンクに行けば誰かいますし、1人で全部やっているというわけではないですけど、自分でこの日は何をやってとか決めて、自分でやっています。あとワットバイクっていう練習器具があるんですけど、それも結構取り入れてやっていますね」
負け戦だろうが変わらず気持ちを入れて走る
─さて牛山選手のプロフェッショナルとしてのポリシーというのはどういうところになりますか。
「もう本当に一戦一戦っていう感じですかね、なかなか言葉で言うのは難しいんですけど、どのレースもレースはレースなので、負け戦だろうが変わらずちゃんと走るっていう気持ちで走っています。気を抜いてレースを走ったことはないと思うんですけど、なんていうか、気持ちが切れて走るようなことはしたくないなと思ってやっている感じですかね」
─牛山選手としてのラインや戦法へのこだわりはありますか。
「今はもう追い込みとしてやっていきたいなと思っているので、ちゃんと先行選手に信頼してもらえるような技術を今はちょっとやっていきたいなと思っています。どうしても横の動きっていうのがまだしっかりできないので、早く関東で認めてもらえるように頑張らなきゃいけないですね。茨城は若手も結構出てきているんで、その後輩たちもそうですけど、関東の強い自力の後ろで頑張れるようにしたいなという感じですかね」
─横の動きの難しさはどういうところにありますか。
「もちろん自分も勝ちにいきたいじゃないですか。前を走っている人ももちろん勝つつもりでレースをしていると思うんですけど、ラインなので協力しあうからラインになっていると思っているんですけど、前が頑張っていたら自分も頑張らないといけないし、でもダメな時もあるじゃないですか。お互いに。そううまく行かなかった時にリカバリーをするために横に動いたりもしなきゃいけないんで。昔はただ縦に踏んでいけばそれでよかったと思うんですけど、今はもうそういう縦に踏むっていうよりは、ラインとして勝負するのがなかなか自分としてはまだちょっと技術が足りないなと思っているところですかね」
─ラインをうまくコントロールするのも番手の役目だったりしますよね。ブロックだけではなくて、位置を作ったりだとか。そのへんの難しさも?
「たぶん勝手に自分の体が反応して動くようになるのが理想なんですけど、まだ今はちょっと考えたりとか、ここはどうしたらいいんだろうとか、一瞬迷いが出る時が多いので。もう迷っている時点でたぶんミスで失敗してしまうので、勝手にできるようにというか、反応はもっと早くして行かないといけないかなと。(レースの展開は)もうすぐにいろんなことが変わっていってしまうので」
─去年は大きな怪我もされて、そういう怪我の具合も含めて今の状態では反応が遅れてしまうようなところもありますか?
「そうですね、それも正直ありますよね。やっぱりだいぶ筋力とかあの時落ちたので、その落ちた中でというか、戻すというよりは今ある力でやっていこうと思ってやっています。そのぶん、正直最初はちょっと怖さもありましたし、今はだいぶもうないですね。あの怪我でたぶん身体というよりは、気持ちの面でちょっと噛み合わないことは最初はありました。
自分的には、最初入院していた頃は、戻れるのかなっていうそういう不安がありました…。骨盤骨折だったんですけど、もうずっと寝てた感じなんで、不安でした。同じ怪我をした稲垣(裕之)さんや新田(康仁)さんは、みんな復活はしているから、そういう人たちに話を聞いたりしてやったんですけど。やっぱり辛かったですね」
─怪我から復活されて、今後の目標というのは?
「本当に少しずつなんですよね、特に大きくバッという目標は今はないと言ったらあれなんですけど、もうちょっと一戦一戦、小さなことから積み重ねていって。練習は変わらずやっているので、あとはレースでもう少しうまく走りたいという感じですね」
競輪選手になって良かった!
─プロアスリート、競輪選手になられてよかったですか?

「はい、よかったですね。やっぱりスポーツ全般が好きなんですけど、競輪ってすごく面白いなと思うし、1着じゃなくても、これはファンに失礼かもしれませんけど、納得したレースができれば結構満足感もあるし。自分が前で走っていた頃は、誰か後ろの人が勝ってくれればそれでよかったと思えるレースもあったし、そういう意味でいいスポーツだなと思いますね」
─レースを走っていて楽しいとか、そういう気持ちも?
「辛いことももちろんありますけど、嬉しいこともありますしね」
─師匠に認められたと思った瞬間はありましたか。
「いや、認められたと思った瞬間はまだないですね。まだまだ足りないと思うし。師匠がトップクラスですから、だから自分も本当に努力しないといけないですね。背中を見てやってはいますけど(苦笑)」
─やはり師匠に追いつき、追い越したいという気持ちはありますか?
「いやあ、追い越したいとかそういう気持ちじゃないですけど、なんというか、勉強させてもらっているというんですかね。(師匠は)やっぱり研究熱心だと思います」
─最後にファンの方にひと言をどうぞ。
「自分はちょっと1着が少ないんですけど、3着とか2着に絡めるように。そういうところも応援してほしいですね。ちょっと厳しい展開からも、着に入ったりとか、そういうような選手になりたいので」
牛山貴広(うしやま・たかひろ) 1981年5月1日生まれ。
他スポーツの主な成績・2005年世界オールラウンドスピードスケート大会500m優勝、2006年トリノオリンピック冬季大会チームパシュート8位
最近のリフレッシュの時間は?
「ちょっと暗いんですけど将棋とか、あとゴルフとか、他にはあんまりやってないですかね。アウトドアも好きですけど、夏はキャンプに行ったり、バーベキューをやったりとかっていうのは結構リフレッシュになりますね。競輪はオフがないので、自分で一日、この日はオフとか作っています」