函館エボリューションレースでファンを魅了した豪快な競走から、好調を維持している伊勢崎選手を今回ピックアップしました。
ロングインタビューになりましたが最後までお付き合いください!
これからが自分の完成形です。
という伊勢崎。
折れた気持ちからの復活に期待だ!
─競輪選手になろうと思ったきっかけは。
「きっかけは近所に師匠の瀧澤さんが住んでいたんですね。その時は別になにも思わなかったんですけど、瀧澤さんのことも普通の近所のおじさんって感じで特に意識もしていなかったですし。それが中学校の時陸上競技をやっていて、それの練習の一環でたまたま自転車を、町内会というか町のバス通りを一人で走っていたんですね。そしたらたまたま横にスーッと並ばれて、危ないから付いてこいって言われて。で、連れて行かれて。そしたら大きな家の前に連れて行かれて、ちょっと待ってろと言われて。お前危ないから、これを被ってやれということで、ヘルメットをくれたんですよ。それが中学生の時で、でもそれも競輪のヘルメットだから決してかっこいいわけでもなく、被ろうとも思わず、家に放っておいたんですね。その後、期末テストかなにかで早めに帰った時に、たまたま第43回高松宮杯がテレビでやっていたんですよ。それで、この間の競輪選手が出るかもねって感じで親と観ていたら、赤の3番車に中野浩一さんがいたんですよ。で、中野さんっていうのはやっぱり強いんだろうなって感じで普通に観ていたら、その横に黒の2番車でこの間会った人がそこにいるんですよ。うわーっと思って。なんか中学生ながらに感動しちゃって。それで名前を見たら瀧澤正光って書いてあって。で、もらったヘルメットにも江戸文字で瀧澤正光って書いてあるんですね、マジックで。うわー、同じだって思って、そこからすごく感動しちゃって。ヘルメット抱えながらテレビにかぶりついていたら、瀧澤さんが優勝しちゃったんですよ。で、その次の日が中野さんの引退レースだったんですよ。それが原因で中野さんが引退されたわけじゃないんでしょうけど、なんか中野浩一さんに引導を渡したみたいな、引退まで追い込んだみたいな気持ちになっちゃって、すごい人がこんなところにいるんだなと思って。そこから競輪選手になりたいっていう気持ちがすごく強くなっちゃって、週末は親父に競輪場に連れてってくれって言って、母親におにぎり作ってもらって、朝からゴザ敷いてゴール前でずっと観ているような感じでしたね。それがきっかけでしたね」
─そこから自転車を始めた感じですか。
「そこから競輪選手になりたいっていう気持ちが強くなったから、文集にもなんにでも将来は競輪選手になりたいって書いてあって、それで高校生になるときに自転車部のある高校を探したわけです。それで紆余曲折はありましたが京葉工業に入学したんですよ。それがすごく良い学校で、先輩には中村浩士さんとか、江守昇さんとか、たくさんいるんで。
後輩も石井秀治とか武井大介とかいっぱいいるし、とにかく名門だったわけですね。で、そこの監督がすごく熱心な方で、今でも僕の生涯の一番の恩師だと思っているんですけど、その先生の下で競輪学校予備校みたいな感じで、高校生活を送りました」
─伊勢崎選手の高校時代の自転車競技歴は輝かしい成績でした。
「そうですね。あれはもうずっと中学生の頃に常に競輪を見ていて、いわゆるイチローが格好から入ると言っているように、千葉競輪場にS級選手が出れば、その真似をしながら家に帰って自分の自転車で乗ってとかっていうふうに、フォームはこの人がかっこいいなとか、見よう見まねでやっていたら、すんなり自転車部の練習に入って行けたんですよね。それでたまたま成績も収められたというか、競輪学校も技免になるまでにできたので、運がよかったのかなと思いますけど。まあ、なかなか自分のそういうのに出会えないことって多いじゃないですか。それにスッと入れたことは運がいいなあっていうふうに常に思っていたんですよね」
─本当に自転車競技での成績も素晴らしかったですよね。
「そうですね。同世代の仲間とかはいまだにその時の話をしてくれますからね。同期だとか、同じくらいの世代の選手たちはスーパースターだ、スーパースターって言ってくれるんですけど」
─初めて伊勢崎選手を見たのは高校生の時にアトランタオリンピックのスプリントの選考会でした。どうするのかなと思っていたら競輪学校に入られて。
「いろんな大学とかからもすごくアプローチがあったんですけど、やっぱり競輪選手になるっていうのが最終目標だったし、中には大学出てからでも遅くないぞっていう声もあったんですけど、やっぱり競輪選手っていう夢を一日でも早く、叶えたいということで。競輪学校のほうも技能免除ですよっていう連絡もあったし、ということでやったんですよね」
─競輪学校に入られてどうでしたか? 81期ですが。
「いやあ、ご存知の個性派揃いですから(笑)。長塚(智広)にしかり、加藤慎平にしかり。いわゆる同級生たちが曲者揃いという。ただ、全員が本当に仲が良くてですね。なんていうのかな、やっぱりいい刺激をしあいながらやっていたし、僕もアマチュア時代、負けたくないという、アマチュア時代の成績を稼ぎながら競輪学校に入ったので、僕は負けたくない、周りは僕を負かしてやろうという気持ちで、常にお互いにいい環境下で。この前なんて、加藤慎平と長塚と3人で飲んだときにも、二人は「俺たちはイセ(伊勢崎選手の愛称)のファンなんだよ」と。そんなふうに言ってくれるくらい、本当にありがたいなというか。競輪学校時代は必死だったというか、抜かれたくないという気持ちで、必死だったという感じですね」
─デビューしてからはどうでしたか。
「デビューしてからは、トントン拍子である程度のところまでS級1班までポンポンと行ったんですけど、やはりプロの世界は甘くなくて、目に見えない壁というか、性格の部分であったり、もちろんレースでへたをすればメディアからも叩かれますし、周りからもそういう目で見られてきたりして、少し腐りかけた時代もあったんですけれど、やはり自転車が好きだし、競輪が好きだし、最初は高収入で魅力的だな、瀧澤さんってかっこいいなっていうことで入ったんだけれども、入ってからいいこともたくさんあるんだけど、嫌なこともあったんだけど、やっぱり大好きな競輪にまだ乗れているっていうのはずっと幸せは感じていましたね。いいことも悪いこともありましたけど。それは今でも同じ気持ちで、一戦一戦大事にしようかなと思っていますけどね」
─今までで一番苦しかったことは?
「やっぱりデビューして怪我が連続して、骨折とかが多くて、要所要所でやっぱり大一番の前に怪我をしたりとかして、それで力を出し切れなかった時がいっぱいあったので。あとは、ちょっと腐っていたわけじゃないんですけど、自転車というかトレーニングを、人間ですからやっぱり落ち込んだ時にちょっと自転車から離れた時があったので、もういいやじゃないけど、ちょっと中途半端な時があったので、それはちょっと今はすごく反省して、今はそれを反面教師としてやっているわけです。
けど、そのなかで苦しいときに一番世話になったのが、亡くなった東出剛さんが常に僕のことを気にしてくれていて、どんな時でも東出さんだけは味方してくれたんですよ。だから僕は今でも瀧澤さんは師匠ではいますけど、やっぱり心の師匠だったり、全てを委ねているのは東出さんだと思っているので。だから東出さんがいてくれたおかげで苦しい時代は過ごせたかなって」
─そこから抜け出せたというのは?
「いや、抜け出したというのはここ何ヶ月です、正直。こうやって取材の依頼があったのも、たぶんこの成績だからだと思うんですよ。だからすごく僕、嬉しいんです。やっぱりメディアの方たちがいて、ファンの人たちが繋がるみたいな感じだから、僕はすごく嬉しいんです。これを夢見ていたというか、だからこれがいわゆる抜け出せたひとつだと思うんですよ。そこまでは、20代の前半から十数年は抜け出せてなかったように思います、正直。ちょいちょい優勝とかもしていましたけど、そういうことではなくてっていう感じですね」
─そうすると函館エボリューションの(5月)の優勝が本当に?
「そうですね。あの前に岸和田(4月)に行って、予選一般一般で負け負け負けをやって、そこからすごい落ち込んで、これは本当にA級行っちゃうんじゃないかっていう不安にかられて。トレーニングはしていたつもりなんですけど、やっぱり甘さがあったのかなって。で、そのあとに近藤隆司と四日市で一緒になって。そのときに、「イセさん、絶対やらなきゃ損ですよ。やれば絶対にこんなにいい職業はないですよ。僕いろんなこと教えますから、もう一度頑張ってくださいよ」と言われて。
後輩だったんだけど、その時すごくそれが自分に入ってきて。ありがたいなと思って。じゃあやるよって。終わってからすぐやるってことで、ちょうどダービーがあったので、ダービーめがけてやりましょうよってことで、いろんなことを教えてもらって。食事とかトレーニング方法とか教えてもらって、それでダービーに向けてやってはいたんですね。まあ、ダービーはどうしてもなかなか結果はでなかったんですけど、負けたんだけど辛さを感じなかったので、今までとちょっと違うぞと思いました。そのフラストレーションを持ちながら、ダービーを3日走りで終えて、そこから函館に行けたので。で、函館でせっかくエボリューションで単騎の競走で自力もだせそうだと、こんな絶好の機会はないなということで、目一杯やってみようと思ったら、ああいう結果になったっていう感じですね」
─ホームで一気にカマして先行してそのまま押し切って優勝。あの
レースは本当に素晴らしいレースでしたよね。
「本当にいい結果になりました。もともと自転車競技をやっていたから、ああいうカーボンフレームっていうのは得意な感じなので、ずっと競輪では十数年、千葉の記録会とか地区プロの選考会とかではいつも僕がトップタイムを出していたので、だからあの時も千葉の選手たちはみんな「高橋陽介が本命になっているけど、これはイセさんでしょ。絶対イセさんが隠れ本命だから」みたいな感じで言ってくれていて。「本当かよ」みたいな感じで行ったら、みんな「ほら、そうだったじゃないですか」って。そんな感じでしたね。それがいいきっかけというか、なんか奥底にあった昔の先行逃げ切りの嬉しさっていうのがブワッと出てきちゃって。それがなんか細胞レベルでワアって湧いてきて、思い出したかのようになんかすごく競輪をもう一度やりたいぞっていう気になったんですよね」
─そこからがまた一気に?
「そうですね。そこからが本当に、まあもちろん人間単純なもので、やっぱり成績が良くなれば練習もはかどるんですよね。それで周りの目も変わってきて、それでもう絶対に負けたくないという気持ちにもなるし、練習も楽しくなるしっていう、もう相乗効果がいっぱい生まれて、それが現時点に至っているのかなって感じはしますね」
─川崎アーバンナイトカーニバル(GIII)の決勝では深谷選手さえいなければと(笑)。
「いや、本当ですよ(笑)。あいつには言ったんですけど、お前はいつでも優勝できるんだから、今回は俺にさせとけよって(笑)。ただ、あそこまでのパワーを見せつけられちゃうと負けて仕方ないかなっていうところも正直あります。俺が絶好の場所であの負け方なんで。ただ、やっぱり悔しさがあるのがこれも成長なのかなって。前は「ラッキー、これで競輪祭はいける」っていう感じなんですけど、今回はどうすればあれを対応できたかなとか、あの時のレースはもう100回くらい見たんですけど、どうやってトレーニングをし直そうかなとか、それも成長したのかなとは思いますよね」
─もう本当にリボーンというか、完全に若返ったような感じですか。
「そうなんですよね。本当にもうこの十数年なんだったんだろうって。中にはもっと早くやっておけばよかったのにっていう人もいるんですけど、そうではなくて、多分これがあったから今があるのかなと。やっぱり悔しいとかいろんな思いをして、尖がっていた自分もいたし、でもその中で、まあ手前味噌になりますけど、すごく競輪選手の中でも仲間が多いと思うんですよ。全国的にも。みんな声をかけてくれたり、この間の準決勝(川崎GIII)だって深谷を抜いたときには控え室に戻ったら東北から九州まで全員が迎えに出てくれてたんですよ。そういうのが恵まれていたし、そういうのはたぶん若い頃の尖がっていたままだったら、こういうふうにはならなかったんじゃないかなと。いろんな人がアドバイスをくれないまま、自分だけの世界で終わっていたんじゃないかと思います。まあそういう選手もたくさんいるのでね。だからそういうのがあったから、今があるのかなって。ありがたいなという」
─本当にびっくりするような復活です。
「まあ僕としてみれば、まだ発展途上というか、いわゆる肉体改造を始めて、もう一度メンタルの部分は今上がっている、あとは体作りをしていかなければいけないというところで。メンタルはすごく今充実しているんですけど、体は自分的にはまだ3分、4分かなという感じで、やっぱり僕の中では10月の千葉記念がどんな特別競輪よりも、どんなことをしてでも獲りたいタイトルというか。やっぱりそこに向けてトレーニングを始めているんでね、そこまでに100パーセントにもっていきたいなという。だから今はまだ発展途上だと思っています」
─では本当にまだまだこれからですね。
「まだまだ、今なんてむしろやれているほうというか、レース前もケアとかはしますけど、練習はまったくいじってないので、この三ヶ月くらい。これからもっともっと体を鍛え抜いて、もっと体が仕上がればいけると思うので、楽しみにしていてください。あとはもう本当に怪我をしないことですね。また二の舞にならないように怪我をしないことを祈っていてください(笑)。まあ、しょっぱい競走をする可能性もやっぱり対戦だからあるけど、その時はちょっと怪我しそうだったのかなと思ってくれれば。そこだけは全力で阻止したいなと思っているので」
─ファンの方にメッセージを。
「ファンの方に向けては、「おはようございます」みたいな。目覚めましたよって(笑)。まあこれは冗談ですけど、今言ったようにまだ発展途上なので、完成形の伊勢崎を待っていてください」
─最後に伊勢崎選手にとって競輪とは?
「体の一部というか、人生そのものですね。これがすべてだし、競輪の為に、家族も周りも犠牲にしてしまっているところがあるので、ここで結果を出さなければ、みんなに報いることができないので。特に最近そう思うことが多くなりましたね」
自転車競技歴
1995年 全日本アマ選手権 スプリント優勝
1995年 JOCJR五輪カップスプリント、1000mTT優勝
1995年 世界Jr選手権出場
1995年 福島国体スプリント優勝
1996年 全日本アマ選手権 スプリント優勝
1996年 JOCJr五輪カップスプリント、1000mTT優勝
1996年 世界Jr選手権出場
2000年 世界選手権スプリント (イギリス・マンチェスター)
2002年 アジア大会スプリント3位(韓国・釜山)
2002年 200mFD日本記録樹立 10秒19(中国昆明)
伊勢崎彰大 (いせざき・あきひろ)
1978年10月12日生まれ 身長171cm 体重77kg
アトランタオリンピックの男子スプリントの選考会に高校生で出場し、神山雄一郎選手と対戦していたのは、今振り返っても伊勢崎選手のパフォーマンスは凄かったと思います。