インタビュー

本田晴美(岡山・51期)
6月27日ラストラン
1983年4月21日名古屋競輪場でデビューし32年間、現役選手として活躍してきた本田晴美が6月27日ラストランを迎えた。
全盛期には滝澤正光氏を先行捲りで再三破るなど競輪ファンを沸かせた。その先行力は「ターボ捲り」と呼ばれた。また1987年の世界選手権のケイリンで金メダルを獲得した。世界選手権のケイリン種目において日本選手では未だに本田が唯一の金メダル獲得者である。競走にはくちびるに塩を塗って走っていたので「塩くちびる」としてでも有名だった。
その本田にラストラン、引退セレモニーを終えた後に、今までの競輪人生を振り返ってもらった。
-ラストランを走り終えて率直に今の心境はいかがでしょうか?
「昨日までは全然実感がなくって。今日(27日)、1Rの山本登も引退で、周りが忙しくなって、アリャリャリャ、アリャリャリャと思っていたら、そういえば今日儂も引退じゃ、で、顔見せ行ったら、ハー今日は引退じゃな!という感じ。だから、引退するから寂しいとか、全然ないですね」

アップ中に玉野バンクを見つめる本田
-感覚的には一区切りみたいな感想でしょうか?
「一区切りじゃし、どっかでは引退というのもあるだろうし、僕はさっきも引退セレモニーでファンにも言ったんだけど、劣等生だった僕が32年間やれて、尚且つ、地元でラストランを迎えさせてもらえて、これだけのファンの人が来てくれたというのが、それがすごく嬉しんですよ。これが、明日とか、今日は飲み会だからそうでもないじゃろうけど、明日明後日ぐらいになったら、ハーそうか辞めたんかという感じかもしれんけど、今はもう全然実感がないですね」

前のレースを見る。
-競輪人生32年間をここから振り返っていただきますが、まず競輪選手を目指されたきっかけはどのような事でした?
「僕、岡山の県北なんですよ。県北って競輪が全然わからなかったんですよ。僕らの時代って競輪選手、僕自身も知らんかったですけど、僕の、お姉さんの旦那さんが岡山の人で競輪が好きで好きで、一回中学校の時に玉野競輪場に見に来させてもらったんですよ。連れられて。
 それがたまたま、玉野記念で中野浩一さんがおるときで、決勝戦観て、優勝賞金が360とか、380万円とかあったんですよ。それ見て、ホーこんだけ走るだけで、こんなに貰えるゆうのを、そこで初めて知ったんですけど。こうゆう世界もあるんやなと思って、それでもう競輪選手やりたいなーっていう感じで。
 だから、中学2年くらいからなりたいって思いました。周りの人は競輪って何のこと?って言われるような中で『競輪選手になりたい』って言ってました」
-その時は他のスポーツをやっていたんですよね
「その時は野球をしていました。野球少年はやっぱりプロ野球に行くって夢があるじゃないですか、でも、そんなレベルじゃなかったから、自分は(笑)。それで、競輪選手になりたくて。競輪を全然知らなかったから、余計になりたいって気持ちがあったから、目指してみようかなと思いました」
-目指すと決めた後はどうでしたか?
「自転車部がある高校は県南だったんですよ。その当時、県南に進む生徒はいなかったので、学校のレベルもわからんし、とりあえず高校は勉強も出来て、スポーツも出来る高校に行って、野球で体力作りをしようと思いました。で、どこの高校?と言われるところに行ったんですよ。
 競輪学校は適性で1回受けて、受からなかったら、即、自転車に乗ろうと思ったけど、受かったから、そのまま競輪学校に行った感じですね」
-そうすると競輪学校で初めてピストレーサーに乗られたのでしょうか?
「それが、ピストレーサーは自分で通信販売で注文して買ったんですよ。高校2年くらいの時に。それで岡山の方を自分で乗ったりはしていたんですけど、本格的に練習は競輪学校に入ってからでした」
-そうするとピストレーサーには慣れていたんですね
「慣れてはいたけど、ずっと自分1人で乗っていたから、周回練習も出来ないし、追走技術もあるわけじゃないし、ただ自転車には乗れますっていう感じでした」
-入学された競輪学校はどうでしたか?
「楽しかったのは楽しかったですよ。学校生活はイヤじゃなかったけど、けど、やっぱり劣等性だったから、練習も強くないし、競走訓練も強くないし、『こんなんじゃ、やっていけんじゃろうな…』って思っていましたよ」
-そしてデビュー。実際にプロになってからはどうでしたか?
「僕らの頃は新人リーグがあったから、デビューしても5ヶ月間は競輪学校の延長みたいな感じじゃないですか。やっぱり5ヶ月間の中で、決勝には何回か乗っているけど、優勝は1回もないし、『やっぱりかぁ……、あ?S級に上がれればいいなぁ…』っていう感じでした。
 それが、何でかどこかしらで変わったかわからんが、知らない内にS級1班まで上がってました(笑)」
-トップを目指せるって思ったのはいつくらいでしたか?
「いつ優勝したっけ? 確か2月に優勝したんですよ。4月にデビューして。9月に格付けになって、特進して、11月の終わりくらいからS級を走り出して、2月の中旬に甲子園で。今で言うFIですね」
-当時の準記念でしょうか?
「うん。それを優勝したんですよ。その時は、ダービートライアルの裏の2、3班戦って言われるヤツだったけど、初優勝して、『あれ? これはもしかしたらいけるか!』って感じだったです」
-それにしても特進して、すぐにS級で優勝はすごいですね。
「うん、自分でもびっくりしました(笑)」
-やはり自転車の才能があったと思いますが。
「いや、皆、『本田さんは才能があるからだ』って言うけど、僕は素質はないって思うんですよ、自転車に関して。でも、練習する素質、それに練習内容を考える素質はあったと思うから、だから、ここまで来れたのかなと思います」
-当時は、相当練習しましたか?
「今の若い子と話す時には、『人と同じ練習を8時間なら8時間しました。でも、勝てないのは練習内容が悪いからだ。競輪に勝てる練習を8時間すれば、勝てる』って。僕は1回、1回の練習内容を書いておいて、で、レースに行って、今回はこうだったなっていうのをレースでやって、レースが終わった時に、練習内容をこれでこうだったから、こういう練習に変えてみようとか、そのくらいの考えですけどね、でも、そうやって練習していました。最低でも1日8時間は練習しないといけないと思っていたので。そうしないとサラリーマンの人に失礼だから。だから最低、8時間は練習していました。
 だから、素質のない人間がそれだけして、そこに行けるんだから、素質のある人間だったらもっと上に行けると思うんです。それをせんから、上に行けないだけ、かなとは思います」

引退レースを出走控え室で待つ。
-その当時は練習は自分で考えていたんですか? それとも師匠(安田兼吉 44期岡山引退)が?
「いや、師匠は練習のことに関して一切何も言わなかったです。だから、僕がこれがこうで練習をすればいい、別に、うん、うちのグループは最初は本当に小さい、師匠と僕と先輩、師匠の兄弟弟子が何人かの小さいグループだったんだけど、それが段々と増えていったけど、でも、『グループの練習に参加しなくてもいい、お前は自分で考えた勝てる練習をすればいい』って言ってくれたから、そう言ってくれたから、ここまでこれたのかもしれないし、自由に自分の練習が出来たから、かなとは思います。
 今回、ここに来る前に嫁に言ったけど、嫁がおらんかったら、僕はここまで出来てないって。昔は車誘導をしてもいい時代だったから、朝の5時くらいから夕方の6時くらいまで車誘導で1時間、2時間の練習を、全部、嫁が運転してくれました。それがなかったら、僕は上まで行ってなかったので、本当に嫁には感謝ですね」
-すごいですね
「そうでもないですよ」
-今の若い選手たちにそういう風に教えていきたいですね
「4月の終わりくらいに、辞めようって決めてからは、けっこう開催に行った時に、相手の師匠の立場もあるから『こうしなさい』とは言う立場じゃないけど、『こういう練習の考え方もあるよ』って、けっこう若い子、他県の子とかにも話はしたりしました。それを実行しているか、どうかは知らないですけど。
 この間、豊橋に前乗りして、たまたま検車場でプラプラしていて、皆が練習するのを見ていたら、島野浩司(62期愛知)が聞いてきました。『今、こういう感じで練習しているんですけど、どうですかね?』とか、島野ももう44、45歳くらいでしょ。気持ちが切れたら、ずるずるいくけど、まだ向上心があるんだなって思いました」
-さて、本田さんというと、特別競輪のタイトルが獲れなかったですが、これについてはどのように思われます。
「……なかったな。僕は僕の中でこれ以上練習出来ないだろうなと思うくらい練習しているつもりだったけど、(獲った人は)もっと練習して、もっと質のある練習をしていたんだと思う。1日2時間くらいしか練習してない人に負けたら、ショックですよ。だから、そういう風に自分に言い聞かせていました。もっとやったら獲れたかもしれないけど、それが出来てないのが僕なんです(笑)」
-しかし、87年の世界選手権のケイリンの金メダルを獲っています。
「あれは井上茂徳さんがいてくれたから獲れました。井上さん、出だしでゴチャゴチャってなって4番手くらいになって、また突っ込んでくれて、後ろに来てくれて、それで仕事してくれて、それがあったから優勝出来ました。あれは僕1人だったら優勝出来てないですよ。それに、井上さんが付いてきて交わされていたと思うし、外国勢が自分の後ろに入られていてもダメだったと思うし。井上さんとか、チームのスタッフや、マッサージしてくれた人とかいて、色んな歯車があって、何かしらんけどその歯車が僕の方に向いたからであって、あれはたまたまです」
-どうして世界選に出ることになったんですか?
「海外旅行に行きたかったから(笑)」
-あの時代はそういうのもなくはなかったですね(笑)。
「でも、あれはスプリントでどうだって言われていたら、ちょっと出てなかったかもしれないですね。気楽に行けたから。自分の経験にと思って、別に自転車競技がムチャクチャ好きっていうのではなかったけど、海外の選手と走ってみて自分がどんなものかも知りたかったし、小さい250のバンクも経験してみたかたし、だから、そういう風な声をかけられた時にお願いしますって受けました」
-変な質問ですけど、世界選のタイトルと特別競輪のタイトル、どちらが欲しかったでしょうか?
「それはいいところ突いたな(笑)、金を獲るか、名誉を獲るかですからね。うーん、でも、特別競輪のタイトルを獲っていたら比較出来るけど、獲ってないから比較出来んですね。でも、たぶん…世界選の方でしょうね。(ケイリンで)まだ誰も日本人で獲ってないですからね。僕の後に何人も獲っていたら、特別の方がよかったなってなるかもしれないですけど、誰も獲ってないなら世界選ですね」
-世界に名を刻んでいるわけですからね。
「そうですね。支部長している時に2008年トラック世界選にチームサポートで行ったら、その時のナショナルチームの監督だったフレデリック・マニェも、けっこうしゃべってくれたしな。話を聞いたら、『練習中とかはすごい怖い人だったけど、本田さんが来た時は優しかった』って言われたから。向こうでも一流の人が自分を知っていてくれるのは嬉しいですね」

ラストラン ゴール。自力で捲って出るも7着となった。
-競輪ですが段々、活躍が出来なくなってきた時はどんな感じだったんですか
「本当に、何回、辞めようと思ったことか…。もう、S級からA級に落ちる時とか、A級からチャレンジに落ちる時とか、そういう区切りの時に『辞めてぇな…』って、勝てないから落ちるわけで、走っても面白くないし、引退したいな…って思ったけど、もう1人の自分は、『いやいや、違うで。岡山の田舎から出てきて、これだけ新聞や、競輪を知っている人は本田晴美って知っている、そこまで名前を残させてくれたのは競輪界だから、皆が『いいかげん辞めれば』って言うて、最後は点数が取れなくて辞めると、ようは点数を取れずに辞めるまでやるのがスジじゃないのか』って自分で思ったんですよ。やっぱり…楽しいですからね、競輪は! 参加した時とか。もう最後までいくだけやってみようかなと思って、今日まで来ました。
 吉岡稔真や中野浩一さん、ヤマコウ(山口幸二)も、超一流が区切りで辞めるのはしょうがないけど、でも、僕らは超一流じゃないから、一流かもしれないけど超一流じゃないから、だったら、最後はもうクビになるまでやればいいんじゃないかって、そんな格好つけて途中で辞めてどうするんだとは思いました。で、最後まで走ってもうた(笑)」
-それが格好良いと思いますけど。
「格好ようねぇけどな(笑)」
-ファンの皆さんは喜んでいました。
「さっきのレースも飛んだけど、(ファンの皆さん)拍手もしてくれたし、セレモニーでも残ってくれていたし、『あぁ、最後の最後までやってよかったな』と思いました」
-競輪人生、一番よかったと思うレースと、一番悔しいなと思ったレースは
「よかったなぁっていうのは出てこんですね…。印象に残っているのは1998年オールスター競輪のレースですけど、悔しいのはそれなんですよ。オールスターの決勝で、吉岡があれだけ行ってくれて。吉岡には、自分の勝つレースをしてくれて、それを交わせれば自分の優勝だからって言ってたんですけど、ああゆう展開になって、結果2着だった。あれはすごく悔しかったですね。吉岡の気持ちもわかったから、本当に優勝したかった。でも、出来なかったから、すっごい悔しかったレースです。
 でも、一番よかったのは……何があるのかなぁ…。しいて言えば、記念を初優勝した花月園の優勝かな。今の嫁と付き合っていた時に、嫁のおじさんが選手なんですよ。『記念でも優勝するような選手にならにゃ、結婚は許さん』って、おもしろく言うたんですよ。それで、優勝したけん、結婚したんですけど、『優勝したったで?』みたいな感じだったから、『文句あるなら言うてみぃ』みたいな感じだったから(笑)、よかったのはそれかな。あとはいっぱいよかったのはあるけど、これだって言えるのはないかな。
 悔しいのがやっぱり、あとは本音を言えば今日(引退レース7着)も悔しいですけどね(笑)。何で、ワシ、格好つけて自力って言ったのかなと思うけど、まぁええか(笑)。でも、やっぱり一番悔しいのは一宮のオールスターですね」

引退セレモニーを終えてファンに手を振る本田。
-一番感謝しているのは
「やっぱり嫁さんですね。言いたくはないけど、選手をしていて、今までけっこう好き勝手させてもらって、車もいっぱい買い替えたりしたし、今は辞めて、まだどういう仕事をしようか、ぼんやりしか決まってないんだけど、楽させてやるからとは言うたんだけど、そんな楽は出来そうにねぇけどな、そんなに儲かれんからな。これからは細々とやっていきます(笑)」
-次の仕事は
「ぼんやりは決めています。競輪とは関係なしに、ただ、また競輪界でそういう話があったら変わるかもしれないけど、一応はそういう話は何もしてないし、どうなるかわからないけど」
-本田さんだったら、記者とか解説者とか
「いやー、しゃべれんけん。すぐに岡山弁が出るから、ダメなんよ(笑)」
-本田選手にとって競輪界はどんなところでしたか?
「楽しいところですね! 練習は苦しいけど、その苦しい分だけ返ってくるところ。こんなに楽しい世界はないと思うから、今は選手は2千何百人といるけど、苦しいのがイヤならしょうがないけど、自分を苦しめて、苦しめて、レースに行って楽しい想いをするべいいんだから、頑張って欲しいなと思うし、競輪は本当にいいですね! 楽しいです!!」
-宿舎も楽しい?
「うん、宿舎も楽しいです。僕は、普段しゃべらないんだけど、参加しているとしゃべる。普段は競輪場の10分の1くらいしかしゃべらないな」

レース後、胴上げとなった。
-ファンにメッセージを
「最後は勝率も2割何分かわからないけど、連対率も3割とかそんなに大してなかったけど、でも、それを最後、32年間、無事に選手生活を終えることが出来たのはファンの皆さんのおかげです」
本田晴美 (51期 岡山)
1963年11月12日生まれ
デビュー1983年4月21日 名古屋競輪場
ラストラン2015年6月27日 玉野競輪場
通算成績 通算出走数 2822回 1著519回 2著386回 3着285回
勝率 18.3% 連対率 32.0% 3連対率 42.1%