数々の特別競輪の表彰台にあがってきた戸邉英雄氏、競輪選手生活35年に終止符を打ち、2018年8月をもって登録消除となった。練習中に心筋梗塞で倒れたことが引き金となり、自分で幕引きを決めたそうだ。今までの思い出や、そして、ファンの皆さんに伝えたいことなど語ってもらった。
後悔しないぐらいやり切ったと言える競輪人生だったと思います
-戸邉英雄さんが選手になろうと思ったのは、どんなきっかけで選手になったんですか?
「父(戸邉弘)が選手だったんですよ。父と父の弟(戸邉純一)が選手をしていたので小さい頃から、競輪選手になれって言われていたので、なんとなく自然の流れで、選手になっていました」
-競輪学校の同期には、本田晴美さんなど強い方も多かったですが、学校時代の戸邉さんはどんな感じでしたか?
「普通でしたよ。同期で今もS級で走っている萩原操が同部屋だったんですよ。在校成績も7位、8位くらいを2人で争っていたんですけど、お互いに抜きつ抜かれつ、ライバル視してましたね」
-選手になって、戸邉さんが一番心がけていたことは?
「僕は素質がある方じゃなかったので、コツコツと継続して練習をしていこうと思っていました。それがレースに活きると思ってやっていました」
-レースで大事にしていたことは?
「自分のやってきたことがどれだけ形になるかと考えて走っていましたね」
-厳しい練習をずっと続けられたのは、競輪に対する愛情も大きかったからですか?
「うーん、そうですね。僕は競輪選手を長くやってきたんですけど、そんなに自転車は好きじゃなかったのかなって(笑)。今、辞めてみて感じるんです。今の若い選手はアスリート意識が高くなっているんですけど僕の場合は、職業意識で始めちゃったから、選手になったからには練習はしっかりしなくてはいけないとか、そういう感じで走ってきたんですよね」
-やるからには頑張ろうと思ったんですね。
「そうですね、僕の仕事は練習なんだっていう感じでやってきたので、だから練習も頑張れたのかなと思います」
-KEIRINグランプリ2002に出場されましたが、いかがでしたか?
「お客さんも入っていましたし、1回しか乗れなかったけれど、もっと緊張するかと思ったんですけど、思いのほか平常心で走れたというか、逆にそれがいけなかったのかなとも思います。もっとプレッシャーをかけるぐらいの方がポテンシャルが出るんじゃないかと思ったんですけど、意外と平常心でした(笑)」
-でも、その大舞台で平常心ってすごいですね。
「今思えば、乗れて満足しちゃったというのはあったかもしれないって思いますね。もっと絶対に獲るんだとか、そういうプレッシャーがなかったから、そんなもんだったんじゃないかなって。本当に獲りにいける選手というのはもっとプレッシャーがかかっていて、緊張するんじゃないかって思います」
-今も脈々と続く茨城と栃木のラインというのは?
「小林信太郎さんが作ったんです。当時、フラワーラインが強くて、層が厚くて、なかなかその中でいい位置がまわれなかったというのもあり、それで、小さいラインだったんですけど、茨栃ラインって作ったんですよね。そこから神山雄一郎とはよく一緒に走ったりしました。
あの時は中野(浩一)さんが強かった時代だから、関東は1つになってフラワーラインとして戦わないと勝てなかった時代だったんです。でも、層が厚くて、なかなか、ちょっと出の選手じゃ最後尾の位置をまわっているくらいしか出来なかったんですね。それで茨栃ラインを作ったんじゃないかと思います」
-一番印象に残っているレースは?
「そうですね、特別競輪で何度も表彰台に乗らせてもらったんですけど、それよりも、S級に特別昇級する時のA級の3場所目(昭和58年10月23日から25日)の9連勝目の岸和田ですね。それがすごく印象に残っているんです。
よくスポーツ選手が『ゾーンに入る』って言うのですが、僕はそれがわかんなかったんです。35年競輪選手をやって唯一その時の決勝戦が、これが皆が言っているゾーンなのかなって感じられるレースだったんです。
というのは、負けたくないこともあって、レース前日ベッドで色んなことを考えていたんです。レース当日、最終バックまではそういう風にならなかったんですけど、バックを過ぎてからちょっとピンチな場面もあったんですけど、それが前日ベッドで考えていた通りになったんですよね、ゴールまで! バックからゴールまでの間、何も考えなくても身体が動いたというか、自分のイメージ通りに踏めたんですよね。ここは空くだろうとか、ここは行って大丈夫だろうっていうのが、無意識の内になっていたことがあったんです。その時のレースが印象に残っていますね」
-戸邉さんが見ていてすごいと思ったレースは?
「坂本勉が同級生にいるんです。僕が絶好調の時に勉も絶好調で、勉の後ろをまわる機会があったんです。僕も絶好調時だったし、それなりの自信があったんですけど、唯一、勉の後ろの時は離れそうになっちゃったんです。今思えば、勉はすごく強い選手だったなっていう思いはありましたね」
-さて引退を決められた理由はどのようなことでした?
「点数もあったし 、もうちょっとやろうかとも思っていたんですけど、…ここ一年くらいは幕引きとか、どこまでやったらいいのかとか考えながらやっていたんですよね。それで4月に練習中に心筋梗塞で倒れて、仲間に助けられたんです。それから、主治医からは『復帰出来ますよ』という太鼓判はもらったんですけど、ただ、助けられた命だし、色々先のことを考えていた時期だったから、この辺で幕引きした方がいいのかなという感じで辞めたんですね。
ケガだったら、まだやる気はあったんですけど、心筋梗塞というのは体の中のことで目に見えないじゃないですか、だから、それなりの不安もあったし、家族と相談して色々と考えたので、後悔はしてないんですよ」
-競輪選手としてやり切ったから、後悔がないんでしょうね。
「そうですね、やり切ったし、もう一度生まれ変わって、もう一回競輪選手になりますか? って言われたら、僕は『ならない』と言うくらいやり切ったかなと思います」
-今、後輩に伝えたいことは?
「僕たちの時代は『悔しかったら練習しろ』っていうような教えられ方でやってきたんです。ただ、今の若い選手は情報が色々と入ってくるから、科学的トレーニングとかやっている選手が多いんですよ。それが間違えだとは思わないけど、でも、自転車乗りなんだから自転車にトコトン乗って、そこから色んなことを取り入れたらいいんじゃないかなと思います。ちょっと頭でっかちになっている選手が多いと思うんです。科学的トレーニングが間違えだとは思わないし、本当は僕ももっと早くから取り入れたらよかったかなと思いましたけど、僕も練習しろってさんざん師匠から言われて、やってきたので、僕から見ると若い選手は絶対的に自転車に乗るという練習量が足らない気がします。もっと自転車に乗ったりした方がいいんじゃないかなと思います。
そうじゃないとケガした時に弱いと思うんですよね。練習をしてきた選手というのは、練習をすれば戻るって思ってやるんですけど、頭でっかちになっていると、ちょっと壁にぶつかった時は練習に目がいかなくなるというか、もっといい科学的トレーニングはないかと、意識がいき過ぎているような気がするんですよね。もしかしたら科学的トレーニングをした方が強くなるのは早いかもしれないですね。けど、寿命で考えたらどうなのかはまだわからないので、もっと考えてやってもらいたいと思います」
-応援してくれたファンの皆さんにメッセージをどうぞ。
「僕を応援してくれたファンの皆さんは勝った時はもちろん、ダメな時も応援してくれて、それが励みになって、35年間選手を続けられたと思います。これから、まだまだファンの皆さんに競輪界を応援してもらって、発展していってくれればと思います」
-今後については?
「とりあえずは少し休みながら色々考えたいと思います。もし競輪関連で呼んでいただけるのなら、お世話になった競輪界だし、お手伝いさせてもらってもいいかなと思っています」
-最後に競輪界への想いをお願いします。
「競輪はとても人間くさくて、とても面白い競技だと思います。もっとファンの方に応援していただきながら、もっともっと発展していってほしいと思います!」