インタビュー

曽我部匡史 愛媛 82期 A級1班
練習を変えた効果が出始め、S級復帰を意識
 かつて、この世界には「競輪道」なる言葉があった。それが具体的に何を指すのかはあいまいだが、選手それぞれがレースにおいて体現するポリシーのようなものに、ファンは心惹かれてきた。3月29日からの地元・松山ナイターFIに参戦した曽我部は、現代にあって「競輪道」を貫く数少ない選手の1人といえる。

曽我部匡史 愛媛・82期
 82期の在校1位として華々しく輪界に現れた男は、デビュー4年目の2002年8月「ふるさとダービー弥彦」でビッグレース初参戦。翌03年には前橋「寬仁親王牌」でGI初出場を果たすなど、順調にスターの階段を上っていった。だが、思うように成績は伸びず、05年7月からはA級に降格。7年以上もS級から遠ざかっているが、その目は輝きを失うことはない。「長いことA級でやっているが、最近は練習を変えた。というより、休むことを覚えたんですね。心拍管理を取り入れたので、オフの日を作らなければいけないんですが、これが気持ちの余裕につながっている」。以前は詰め込めるだけ詰め込むような、ハードトレーニングの毎日だったというが、40歳を前に体をいたわることを知った。
 練習を変えた効果は、今年に入って表れ始めた。1月の松阪決勝では、バック8番手から大外を捲り追い込んでのV。1年3カ月ぶりの美酒とあって、ゴール後は万感のガッツポーズも飛び出した。以後も安定した成績で、競走得点も上昇。「このところはS級復帰を意識するようになりましたね。以前も口にはしていたが、冗談レベルだった」。だから、今回の地元戦はより気合が入っていた。
 初日予選は河上泰範(高知)との連係で1着突破。2日目の準決勝は、特選組の近藤範昌(岡山)を目標にできる番組だったが、自力勝負に。「まだ自分は自力を捨てていない。同じ四国ならともかく、中国は別地区。悔いなく戦うためにも、自分でやりたい」と、こだわりを見せた。「空いているから」と安易にマークに回ることをよしとしない。ステージは違うが、直前に行われた立川「日本選手権」決勝で、優勝した村上義弘(京都)が深谷知広(愛知)と連係しなかったような、強い男気を感じた。曽我部は結果7着に終わったが、レース後の表情に曇りはなかった。
 最終日には再び河上との連係で1着を取り、しっかり競走得点を上げて地元戦を締めた。「気持ちに余裕があるから、たとえ負けても切り替えが早くなった」という曽我部。再び輝くステージに戻ってくる日が、きっと来る。


松山競輪場より