インタビュー

河端朋之 95期 岡山 S級1班
挑戦は続く
 2度目のダービーも、3走しかできなかった。4月30日から静岡で行われ、中川誠一郎(熊本)の劇的Vで幕を閉じた第70回「日本選手権」。河端にとっては13年の立川以来、3年ぶりのダービー出走。今回こそはと意気込んで臨んだが、結果は8、7、8着。「最終日まで走りたかったですね。初日がすべてだけど、今までは出切れない、まくれない…だったのが、今回は出切るまではできた。ただ行くだけになってしまったが、7、8着でもダメダメではないので」。初戦、2戦目は打鐘先行、3戦目は最終ホームからのロングまくりですべてバックを取り、見せ場は十分に作った。胸を張っていいレース内容だった。

河端朋之 95期 岡山
 12年のロンドン五輪は落選。当時27歳の河端にとって、自転車競技を続けるかどうかは大きな決断だった。河端は迷わず挑戦を続行。リオデジャネイロ五輪出場は悲願だった。14年アジア大会(韓国・仁川)でスプリント銀メダルを獲得するなど、国際大会でも実績を積んだ。昨年7月の弥彦「寬仁親王牌」2日目に落車して、大きく歯車が狂う。「右鎖骨と肋骨の骨折でした。実戦復帰まで3か月かかった。順調でも選ばれていたかどうかだが、自分にとってはあれが痛かったですね。落選は、もちろん悔しかった」。落車したのも自分の責任と、納得はしている。だが復帰した10月には五輪選考のための、最後のトラックシーズンが目前に迫っていた。夢は、またしても破れた。
 果たして、4年前と同じ決断の時が来る。自国開催の20年東京五輪、河端は35歳になる。やはり心は揺れた。「今年2月のアジア選手権(伊豆=スプリント8位)が終わって、競技をやめようかとも思った。でも、その直前の『全日本選抜』で、ずっとナショナルチームで一緒にやってきた渡邉一成(福島)さんがGIを取ったんです。自分もこのままやめてもいいのかと」。仲間の活躍が刺激になり、東京五輪を目指すことに。4月の「全日本選手権自転車競技大会」はスプリント、ケイリンで2冠。リオ五輪代表の中川、渡邉、脇本雄太(福井)とは直接対決がなかったとはいえ、国内トップクラスの実力をあらためてアピールしてみせた。
 競輪と競技の両立は、やはり難しい。河端にとって次の4年間も、いばらの道になるのだろうか。「ロンドンからここまで、長かった。でも、トラックでは大学生を含めて自分に続く世代が出てきていない。自分が続けることで、日本の自転車競技の底上げができればいい」。代表への熱い思いとは別の何かが、河端を突き動かす。若者よ、俺を乗り越えていけ―。もちろん自身もよりパワーアップして、一歩先を進んでいく覚悟はできている。そう、競輪も人生も、積極駆けが身上なのだから。


静岡競輪場より