インタビュー

成田可菜絵 大阪 112期 L級1班
「一番」目指し、笑顔で再チャレンジ
8月2日から開催されたS級シリーズ「日本名輪会カップ・第7回ヤマセイ杯」。ガールズケイリンでは、7月にデビューした成田が3場所目にしてホームバンク初参戦。決勝入りこそ逃したが、最終日の一般戦で逃げ切り初勝利を挙げた。前走の函館は出身地とあって、地元メディアにも取り上げられるなど話題となったが、結果は4、6、3着。悔しさをバネに臨んだ岸和田で、ひとつ結果を出した。「やっと…ですね。なかなか地元を走らせてもらうことがないのに、2場所続けてだったし重圧もあったが、ありがたいなと。(デビュー戦の)前橋、函館は組み立て方も分からず、自分で動かす勇気もなかった。納得いかない負け方ばかりで、師匠(古原勝己)には毎回怒られて…」。自転車経験ゼロで飛び込んだ競輪学校時代から苦戦が続いたが、待望の白星で今後に道筋が見えた。

成田可菜絵 大阪 112期
小さいころからかけっこでは負け知らず。北海道・上磯中で本格的に陸上競技に取り組み、2001年の全日本中学校選手権(全日中)で2年生ながら100m、200mの2冠を達成。翌年には両種目を連覇、さらに4×100mリレーも制して、全日中史上初のスプリント3冠女王となった。その時のゼッケンが「1 1 1」と、まさに完璧なストーリー。前途は、限りなく開けていたはずだった。函館大谷高へ進学してからも、2003年の世界ユース選手権に出場するなど順調に活躍していたが、直後の長崎インターハイ・100m準決勝でレース中に肉離れを起こし、救急搬送された。「右の太ももだったと思います。嫌な音がして、動けなくなった」。走れない間はウェイトトレーニングなどで上体を鍛えたが、体のバランスが崩れ、長いスランプに陥った。
大学まで続けた陸上競技だったが、輝きを取り戻すことはできなかった。「実業団入りも考えていたが、甘くなかった。遊びで(陸上を)続けるのは嫌だった」。就職を機に、人生のすべてを懸けてきた陸上から離れた。重い決断だったが、わずかに燃え残った勝負師の魂が、6年後によみがえる。「ガールズケイリンは1期生の時も誘いがあったが、断った。親は背中を押してくれたけど、練習が嫌だなと(笑)。それから5年たって、もう一度知人から紹介されて、1度だけ受けてみようと」。適性で受験し、一発合格。自分の大好きな「一番を目指せるもの」に、再び巡り合えた。
プロとして走り出した成田に、改めて目標を聞いた。「1つ勝ったといっても、決勝には乗れていないし、まだ周りに怒られてばかり(笑)。でも、縁があって競輪選手になった。お世話になっている人を裏切らないレースをしたい。師匠には最初の3年が勝負だぞ、と言われている。行けるところ―上まで行ききりたい。焦らず、勝ちにこだわりたいですね」。15年前に最高の光を放った天才は、時を経てバンクに降り立った。感謝の気持ちを胸に、あの時と同じまぶしいばかりの笑顔で、未来を切り開いていくに違いない。


岸和田競輪場より