今回の闘将列伝は選手生活23年目に突入した岡部芳幸選手の登場です。2000年の千葉ダービーでタイトルを獲得し、計4度のGII優勝を飾るなど、現在も続く福島王国の礎を築いた選手の1人と言っても過言ではないでしょう。現在のところ、今年の優勝数がよもやの0回とここ最近はやや低迷してしまっていますが、試行錯誤中という大ギアを自分のモノとした時、鮮やかな復活劇を見せてくれることでしょう。
─最初に、競輪選手を目指したきっかけから教えて下さい。
「俺の場合、自転車を始めたきっかけと競輪選手を目指したきっかけは違うんですよ。自転車を始めたきっかけは親父の薦めもあるんだけど、高校1年生の時に俺は陸上部に入ってたの。だけど、2歳上の先輩で三輪浩一(61期)さんていう人がいて。その人が何でかはよく分からないんだけど、陸上部に入っている俺を(自転車部に)ものすごく誘ってくるわけ。それに負けた形で夏休みくらいから自転車部に入った。そしたら、親父に競輪選手になれって言われたんですよ。というのも、師匠(班目秀雄)の娘が俺と同級生だったの。そういう縁もあって、俺自身も競輪選手を目指してみようかなっていう感じになっていったんです。だから、今思えば、その三輪さんの誘いがなければ競輪選手にもなってなかっただろうし、こうしてインタビューを受けることなんて絶対になかったと思うから、本当に不思議だなと(笑)」
─三輪さんに誘われるまでは競輪に興味もなかった?
「全然だね(苦笑)。だって、今みたいにCMもやってないし、街に出れば開催告知みたいなものはやってたけど、何のことかさっぱり分からなかったから(笑)」
─自転車に乗り始めた当初はやっていけそうな気はしましたか?
「とにかくキツかった。自分でもすぐ辞めちゃうかもなって思ったくらいで、入って失敗したかなと。ただ、自転車部には同じ1年生の仲間が10人くらいいたから、お互いに支え合えたから辞めずに済んだというのもあるし、誘われて入った手前、そう簡単に辞められないじゃないですか(笑)。それに、俺自身、途中で投げ出すのがあんまり好きじゃなくて。とにかく俺は負けず嫌いだから」
─ただ、その負けず嫌いな部分は競輪選手にとっては必要なものですよね。
「そうだね。未だに負けず嫌いだから。周りからは、『もう歳も歳なんだから』って言われたりもするけど、自分では何を言われているのか、言ってる意味がさっぱり分からない。今でも深谷(知広)にはどうやったら勝てるかなとか、そんなことばっかり考えているから」
─そんな「超」がつくほど負けず嫌いな岡部選手がデビューしたのが90年の8月で、現在は選手生活23年目なんですよね。
「デビュー当初はある程度長く選手でいられるかなっていうのは思ってはいたけど、必死で頑張っていたら気が付いたら時には22年も経ってたって感じかな。でも、自分の中では逆に『まだ20年しか経ってないんだ』っていう気持ちもあるんですよ。それくらいアッという間だったかな」
─その22年の間に辛いことや苦しいこともあったと思いますが…。
「色んなことはあったけど、忘れちゃって覚えてないかな。あんまり過去は振り返らないタイプだから。負けたレースのダイジェストなんかもいつまでも見たりしないし。そういうの見ちゃうと後悔ばっかりしちゃうから、自分の頭の中で整理して、今回はあそこで失敗したから、次に同じ様なレースになった時にはこうしてみようと。基本的にはそれで終わり。負けたレースを見たくないっていうのも、負けず嫌いなんだろうけど(笑)」
─では、この22年の選手生活の中で思い出に残っているレースは何ですか?
「やっぱり、地元記念を初めて獲ったレース(99年12月・49周年記念後節)。デビューが90年だから、地元記念獲るまで10年くらいは掛かった訳だし、それまで同期が記念を1~2回は記念を獲っているのに、俺だけ獲れていない様な状況だったから、本当に嬉しくて。未だに覚えているし、それだけ印象深いレースではありますよね」
─同期や同世代が結果を残していく中で、焦りやジレンマなどはありましたか?
「あるある(苦笑)。同期が上位に上がっていくと、敏感に感じるじゃないですか。負けず嫌いだから、なおさら。でも、そこで『負けたくない!』っていう気持ちを持てたからこそ、諦めずに頑張ることが出来たと思うんですよね。あと、同期もそうだけど、後輩たちのおかげというのもあるかな。後輩たちが育ってきて、抜かれたりもしたんだけど、付いていくことが出来たからここまで来れたかなっていうのもあるからね」
─その後輩というのは?
「伏見(俊昭)や金古(将人)の存在が俺の中では大きいかな。伏見は弟弟子でもあるし、オリンピックに行ったり、世界で活躍しながら競輪でも結果を残していたし、金古は高校生の頃からずっと一緒にやってきた後輩だったので。本当にこの2人がいなかったら、今の俺はないと言っても過言ではないと思うんです。そういう意味では環境には本当に恵まれていたと思うし、感謝しています」
─そして、00年には念願の初タイトル(千葉ダービー)を獲得しました!
「GIとかって、自分の中ではどこまでやれるかなっていう、力を試すところっていう感覚だったから、そこまでタイトルに対する欲みたいなものはなかったんですよ。ただ、その前の年(99年)に初めてGIの決勝に乗って(大垣・全日本選抜)、自分の中で手応えみたいなものがあったのが、すぐ結果に繋がったのかなという感じはしますね。それに、その千葉ダービーまでの半年間っていうのはとにかく調子が良くて、自分でもこのままGIに行ったらどこまでやれるのかなっていう楽しみはあったんですよ。自分でもビックリするくらいの快進撃だったから。そしたら優勝することができて、すごく自信になったのは覚えてるし、そういう意味では、この千葉ダービーの決勝も思い出のレースの1つということになるのかもしれないですね」
─そして、その年のグランプリでは2着でした。
「あれはすごく悔しかったですよ。ダービー獲って、グランプリ2着なのに賞金王になれなかった訳だから。しかも、グランプリのゴール後には勘違いしてガッツポーズまでしちゃったから(笑)。自分ではいい伸びだったから、届いたと思ってガッツポーズしたんだけど。それだけ際どい勝負で負けたっていうのが余計に悔しくて。でも、その悔しさがあったからこそ、その後3回(01年、03年、04年)もグランプリに出ることが出来たと思うんですよ。あの00年のグランプリで優勝して賞金王になっていたら、『燃え尽き症候群』みたいな感じになってた様な気もするし。だから、あの結果はあれはあれで良かったのかなという気もしますけどね」
─実際、その後は計4度のGII優勝を飾っていますからね。ただ、ここ数年はやや低迷気味ですが…。
「ケガも多かったし、色んな変化に器用に対応できる訳でもないから、手こずっていることは確かだけど、自分的には淡々としているというか。周りからは心配されたりもするんだけど、何にでも時間が掛かるタイプなので(苦笑)。だから、自分としてはそんなに行き詰っている訳でもないんですよ」
─全盛期に比べて、戦法も変わっていますしね。
「今は自分の中では追い込みっていう感じで、自力は出さないっていう訳じゃないけど、ちょっと厳しいかなと。大ギア化っていうのもあるし。ただ、そこまで戦法にこだわっているという訳ではなくて、メンバーや展開に応じて勝つ為の最善の戦法を取っていくというだけですね。だから、今後自力を出すこともあるとは思いますよ」
─現在は大ギアブームへの対策にベテラン選手は苦労されていますしね。
「ここ3ヵ月くらいで4回転を踏む様になってきて、俺自身は大ギアにはだいぶ慣れてきてはいるけど、完璧に踏みこなせているかっていうと、まだ途中っていう感じですね。ただ、ちょっとずつ手応えみたいなものも出てきているし、もうちょっと煮詰めていけば、モノにできそうな感じはしているんですよ。まあ、焦らずじっくりとやっていこうかなとは思っているんですけど」
─ここ最近では8月、9月と落車が続いてしまっていますが。
「それでも、現時点では脚も軽いし、体調はだいぶ良いんですよ。ただ、いくら体調が良くて脚が軽くても、大ギア全盛の競輪界ではなかなか結果を残せないんですよ。自分の思った通りの展開にならない時には切り替えるくらいの気持ちでいないとダメなんだなと。だから、今後はもうちょっとシビアに攻めていければいいかなとは思ってるんですけどね」
─では、今後の目標を教えて下さい。
「やっぱり、グランプリを獲って賞金王になってみたいですね。もちろん、その前段階としてタイトルを獲らないといけないんだけど、俺はまだ全然諦めてないから。力自体はそこまで差は感じないんだけど、大ギアに対しての適応力やレースでの判断力の部分で差があるかなと思っているから、そこが埋まっていってくれれば十分やれますからね。それに、去年は(山口)幸二さんがグランプリを獲って賞金王になって、ファンはもちろん、ベテラン選手にも勇気を与えたじゃないですか。その幸二さんもそれまで順調な道のりじゃなくて、色々苦しい思いをしながら、頂点に辿りついた訳だから、俺もそういうところを見習おうかなと。だって、俺が本当に復活して賞金王になったらカッコ良すぎるでしょ(笑)!」
─それでは、そんな華麗なる復活劇を期待しているファンの方へメッセージをお願いします。
「まだまだ諦めるには早すぎると思っているし、これからも精一杯頑張って、ファンの皆さんの期待に応えていきたいと思いますので、温かい応援をよろしくお願いします」