インタビュー

 今回の闘将列伝は有坂直樹選手の登場です。競輪学校には技免で入学し、在校順位は2位と、「64期三羽ガラス」の1人としてその将来を嘱望された有坂選手ですが、初タイトルはデビュー17年目(GP優勝は16年目)と苦労人でもあります。そんな有坂選手の23年の競輪人生を振り返ってもらうと共に、今後の展望についてお聞きしました。
─まずは、競輪選手を目指したきっかけから教えて下さい。
「小学生の時に中野(浩一)さんが年間獲得賞金1億円突破というニュースを見て、『自転車ってけっこう稼げるんだな』と思ったのが最初ですかね。それで、高校では自転車部に入ったんですけど、最初の1年間はあまり部活にも出なかったんですよ。というのも、高校1年の時は長距離をメインに乗せられてたんですけど、僕、長距離が好きじゃなかったんですよ(苦笑)。それで、2年生になればある程度自分の好きな種目をやらせてもらえるということで、短距離をやらせてもらう様になって。そしたら、思ってた以上にいい成績が残せたので、このまま競輪選手になるのもアリかなという感じで。まあ、もともと才能があったんでしょうね(笑)」
─そのアマチュア時代の成績が評価されて、競輪学校には技免で入られたんですよね。競輪学校時代の思い出などはありますか?
「うちの期(64期)はけっこう仲が良かったんですよ。だから、学校生活はけっこう楽しかったかな。三宅伸(岡山)君、高木隆弘(神奈川)、僕とであとから『64期三羽カラス』って呼ばれたりもするんですけど、卒業してからもお互いにいい刺激にはなってましたよね。ただ、2人の方が活躍するのが早くて、特別競輪の決勝にもコンスタントに乗ってたりもしたんだけど、僕だけ置いていかれた様な感じで、悔しさはありましたよね。朝練やって、午前・午後、さらに夜まで練習していたのに、何で特別獲れないのかなって思ったりもして。こんなに練習してもダメなんだから、自分はこのまま何も獲れないで終わっていく選手の1人なんだろうなって本気で思った時期もありましたね」
─それでも、諦めずに頑張ってきたからこそ、それが報われる日が来たということですね。
「96年に椎間板ヘルニアになったんですけど、その翌年の春に結婚して、自分にも守るものが出来たということで、気持ちを入れ直して頑張らないといけないなと。そういう意味では僕にとって、結婚というのは1番大きな転機だったかなとは思いますね」
─それだけ苦しい思いをしてきた有坂選手が初めて手にした栄冠が06年のKEIRINグランプリでした。
「グランプリは選手になった以上、そこに出たいという気持ちはあったんですけど、その年は賞金ランキングの結果で乗ることが出来て。若い頃はグランプリなんていつでも乗れるよ、みたいな感じで自信満々だったんですけど、デビューから16年目での初出場で(苦笑)。でも、あの時は不思議と緊張しなかったんですよね。というのも、あの年の北日本は山崎(芳仁)と僕と(佐藤)慎太郎で、発走直前に敢闘門から出ていく時、慎太郎が『お祭りなんで楽しんでいきましょう』って声をかけてくれたんですよ。『やっぱり、何回も(グランプリに)出てる慎太郎は余裕だな』って変に感心しちゃって。その時に、僕の緊張感も自然と消えていったというか、3番手だし、気楽に走ればいいかなと。そのおかげでレースの流れに上手く乗ることが出来たし、空いたコースを踏んだら伸びたっていう感じで、9人の中で1番緊張してなかったっていうのが勝因でしょうね。逆にいえば、あの時の慎太郎のひと言がなければ、違う結果になっていたかもしれないので、慎太郎には感謝してますよ」
─グランプリ王者となったことで、翌年は有坂選手にかなりの注目が集まりましたが、プレッシャーなどはありましたか?
「当時は、グランプリを獲った選手は次の年に活躍できないなんていわれていたりもしたから(笑)、自分もそうなっちゃうのかなっていう不安もあったんだけど、同じ負けるにしてもカッコ悪い、無様な負け方だけはしない様にしようと。1番車のユニフォームを着ている以上は、どんな展開になっても最後まで諦めずに踏もうっていうことだけは常に頭の中で意識していましたね」
─その結果、3月のダービー(平塚)で嬉しい初タイトルを手にします。
「あの時は初日は山崎、2日目は(佐藤)友和、準決勝は伏見とみんな自力で動いてくれたおかげで決勝に乗ることが出来て、本当に恵まれていたなと思いますよね。あの頃は若手の台頭が凄くて、北日本が本当に盛り上がっていたので、その流れに乗る為にも練習だけはしっかりやって、チャンスが来た時にはそれをモノに出来るだけの準備はしていましたからね。そういう準備をしておけば、レースの中で、頭で考えるより先に身体が動くんですよ。ダービーの時はまさにそういう感じでしたね。だから、優勝が決まった時には本当に嬉しかったのを覚えています」
─グランプリの優勝とどちらが嬉しかったですか?
「やっぱり、ダービーの方が嬉しかったです。『ダービー』は特別競輪の中でも1番格式が高いじゃないですか。『どの特別競輪を優勝したいですか?』っていうアンケートを選手にすれば、ほとんどの人が『ダービー』って言うと思うんですよ。それだけ特別なものなんですよ、『ダービー』って。だから、あの時の決勝はもちろん1番の思い出でもありますし、勝ち上がりまでの3レースも鮮明に思い出せるくらい、僕にとって忘れられない6日間でした」
─ただ、そのダービー制覇後はなかなか結果に恵まれていないですが…。
「年齢が年齢(42歳)っていうのもありますしね。ただ、それでも、去年には僕より歳上の(山口)幸二さんがグランプリを優勝してますしね。なので、去年のグランプリを見て、気持ち的に奮い立った部分があって、もう少し頑張ってみようかなっていう感じにはなっているところですね。もちろん、体力的にキツいことはキツいんですけど、その分、気持ちでは負けない様にしていこうかなと。やっぱり、その気持ちの部分が萎えていってしまうと、あとは落ちていくだけになってしまうので、そこ(気持ち)でブレーキをかけていかないとね。当然、練習量とかは若い頃に比べて落ちてしまうんですけど、集中してしっかり練習する様にしながら、調子や状態を整えていきたいなと」
─12月の福井FIでは初日と3日目に鈴木謙太郎選手を交わして1着取ってますから、まだまだですよ!
「そうですね(笑)。ただ、今期は失格があるから、来々期は(S級)2班に落ちてしまうかなっていう感じではあるんですけど、やるべきことをしっかりやって頑張っていきたいなと。あと何年選手でいられるかは分からないけど、自分としては50歳までは続けたいなと思っているので。この頃引退ブームなんで、チラッとそんなことを考えたりしたこともあったけど、とりあえず、あと7年は頑張りたいなと」
─やはり、同期や同年代の方が引退していくのは寂しいものですよね。
「そりゃ、寂しいですよ。幸二さんの引退もビックリしたんですけど、マサ(斉藤正剛)の引退には本当にビックリして。僕としてはまだまだやれると思うんですけど、彼にも思うところがあったんでしょうけど。ただ、北日本の中で一緒に頑張ってきた仲間ですから、ショックでしたね…。でも、僕はまだまだ頑張りますよ! まあ、ここ最近はなかなかコンスタントに特別競輪に出場すら出来ていない状況なんですけど(苦笑)、もう1回特別競輪の決勝に乗れる様にコツコツと頑張っていきたいと思います。マイクパフォーマンスが上手で、ファンに愛された幸二さんが引退してしまったので、その椅子も狙いつつ(笑)。それで、引退後はどこかの新聞にコラムかなんかを書ける様になりたいですね(笑)」
─それでは、最後にファンの方へのメッセージをどうぞ。
「ここ2年くらいは全然いいところがなかったんですけど、残り少ない競輪人生、悔いが残らない様に一生懸命頑張っていきたいと思いますので、応援よろしくお願いします」