インタビュー

 2013年一発目の闘将列伝は先日の競輪祭を持って現役生活に別れを告げた山口幸二さんです。「ヤマコウ」の愛称で多くのファンに愛され、競輪選手会岐阜支部長という激務をこなしながらKEIRINグランプリを制した、まさに「闘将」。今回は引退して間もない山口さんに現役生活を振り返ってもらうとともに、現在の心境などについてお聞きしました。
─引退されてからまだわずか1ヶ月足らずですが、実感は沸いてきましたか?
「そうですね。今回、KEIRINグランプリ2012に『記者』として取材をさせてもらったんですけど、その時に改めて『あぁ、引退したんだな』っていうのは思いましたね。なんか寂しさっていうのかな、そういうのは込み上げてきましたよね。引退の記者会見でも喋ったんですけど、引退したこと自体に全く後悔はしていないんだけど、やっぱり、そういう勝負の世界から離れた寂しさみたいなものはどうしてもありましたよね。ただ、それと同時に新鮮さもあって。というのも、今まで僕が現役の頃は1回競輪場に入れば、4日間とか、ダービーなら長くて7日間は競輪場に缶詰めじゃないですか。だけど、KEIRINグランプリ2012での僕は『記者』だから、その日のレースが終われば普通に競輪場を出られる訳ですよ。それが何か不思議な気分でしたね(笑)」
─今までは自分をかなり追い詰めて競輪場に入っていた山口さんですが、それから解放されてホッとされて部分もあるんですか?
「それはありますね。やっぱり、ここ数年はそれこそ夜も眠れない様な日もあったんですけど、今は本当によく眠れますからね(笑)。かなり健康的な日々を送れていますね。まあ、それだけ目に見えないプレッシャーと戦い続けてきたのが現役時代だったんだなというのは改めて思いますね。それと同時に、今もそのプレッシャーと戦いながら最前線で戦っている選手たちは本当に大変だと思うし、頑張って欲しいですよね」
─引退されてからは自転車には乗っていますか?
「全く乗ってないですよ。今のところ趣味で乗ろうかなとかっていうのもないですし、しばらくは自転車から離れて、身体を休めてあげたいなっていうのが正直なところですね」
─それだけこの24年間の現役生活が充実していたということなんですね。
「もちろん。さっきも言いましたけど、引退を決めたこと自体には全く後悔してないですから。まあ、波乱万丈な競輪人生だったとは思いますけど、自分ではよくやった方だなと思いますけどね」
─そんな波乱万丈な選手生活の中で思い出に残っているレースなどはありますか?
「どれっていうのは選べないですよ。優勝したレースは自分の中でどれも大切なレースとして思い出に残ってますから。僕の場合は追い込み選手な訳だから、前の選手が頑張ってくれたから獲れたレースっていうのもあるし、そうやって周りに支えられて優勝したレースはどれも思い出に残ってますよね」
─波乱万丈という意味では、08年にはS級2班に落ちたりもしていたんですよね。
「あぁ、そうですね。落ちたのは失格が原因だったんだけど、ちょうど、その時は支部長になった時期と重なったりもして色々大変ではあったんですけどね。それでも、自分の中ではもう1度踏ん張れそうな手応えを感じていた時期でもあったので、そこまで焦りみたいなものはなかったかな」
─確かに、09年から引退される12年までS級S班をキープして、ひと踏ん張りどころかひと花咲かせましたからね。
「支部長をやってるとどうしても練習時間が限られてしまうんだけど、その中でいかに集中してやるかっていう部分で、自分なりの練習のやり方というか、時間の使い方を見つけられたっていうのも大きかったかなとは思いますね。それに、支部長をこなしながら、競輪界のトップクラスであるS級S班として活躍することで、ある程度の発言権も出てくるし、それと同時にその発言に説得力みたいなものも出てくるじゃないですか。それが、他の選手にとってプラスになるんじゃないかなという思いがあったからこそ頑張れたっていうのもありますよね」
─そして、ついには2011年に最高峰の舞台、KEIRINグランプリまで制しました。
「それは僕が『もってる』選手だからでしょう(笑)。まあ、あの時はやっとたどり着いたグランプリの舞台でしたからね。09年、10年と2年連続で次点で出られなかったんですけど、そこで気持ち的に踏ん張れたからこそ、11年のグランプリ優勝に繋がったと思うし、あの時は深谷知広─浅井康太が前で頑張ってくれたからね。そのグランプリの前検日まで、自分の中で素直に3番手回っていいかどうか悩んでいた部分があったんですよ。というのも、自分の中では、これが最後のグランプリになるのかなっていう思いもあったし、そういう舞台なら3番手ではなくて、自分の思い通りのレースをした方がいいんじゃないかって思ったり。だけど、ちょうどあの年は東日本大震災で、『絆』というのが本当に大切だっていうことを思い知らされた年でもあったから、悩んだけど3番手を選んで。その結果、前の2人が頑張ってくれて。あの優勝は本当に嬉しかったですね」
─しかし、その涙のグランプリ制覇から、たった1年で引退されてしまうとは、あの時、誰も考えていなかったと思います。
「まあ、そのグランプリ前から、そろそろ潮時かなっていうのは感じていたんですよ。これは記者会見でも話しているから、知っている人もいると思うけど、その年(11年)の宮杯の準決勝で深谷から離れてしまったんですよね。それが、単純に脚力の衰えで離れてしまったなと感じたことで、『そろそろかな…』っていう気持ちが出てきて。でも、グランプリを制したことで、1番車を着ることになって、そのことへの責任感もあって、あと1年は頑張ろうと。もちろん、騙し騙しやればもう1~2年は出来たのかもしれないけど、僕の美学じゃないですけど、余力を残したまま終わりたいっていうのもあったし、脚力の限界が来ている選手が勝てる程、そう甘い世界ではないですからね。やっぱり、これは引退した方がいいだろうなということで、(引退を)決めたっていう感じですね」
─ハッキリと引退を決意したレースはどのレースだったんですか?
「オールスターの準決勝かな。あの時は深谷の後ろで小野(俊之)と競りになったんですけど、簡単にというか、あっさりと番手を取られてしまって。『ああ、やっぱりここまでなんだな』と。結果的に落車もしてしまったし、あの時にもう辞めるべきなんだなというのを感じましたね。ただ、その後に地元記念も控えていたし、その後は競輪祭もあったので、そこまでは全力で駆け抜けようと。まあ、地元記念は落車の影響もあったりで、いい成績を残せなかったのが残念といえば残念ではあるんですけど」
─ただ、その後の引退開催となった競輪祭で優出するあたりはさすがです。
「やっぱり、『もってる』んですよ(笑)。でもね、あの決勝にしても、あれだけ藤木(裕)が行ってくれたのは本当に嬉しかったんだけど、僕自身は付いているのももういっぱいいっぱいで。改めて引退の決断は間違ってなかったんだなと思いましたね」
─そして、レース後の敢闘門では村上義弘選手や山田裕仁選手が涙を流しながら山口さんを出迎えました…。
「彼らやほんのごく一部の選手には競輪祭で辞めるっていうのを伝えてあったんですけど、それだけ自分の引退を惜しんでくれる人がいるっていうのは選手冥利に尽きますよね」
─さらに、2012年のKEIRINグランプリはその村上選手が優勝するという映画みたいな劇的なフィナーレでした!
「あれは、本当に嬉しかったですね。村上とは数え切れないほど連係もしたし、数え切れないほど対戦してきた同士ですからね。村上が優勝コメントで『兄弟』と言ってくれたけど、本当にそんな感じで。僕の1番車を継いでくれるのが村上で本当に嬉しいですね」
─さて、今後の山口さんの活動のご予定はどうなっているんですか?
「とりあえず、スポーツ紙さんと契約させてもらったので、そちらでコラムなどを書いていくということになると思いますね」
─テレビ解説などは決まっていないんですか?
「それは今のところはないですね。機会と需要があればっていう感じで」
─同期の内林(久徳)さんとの掛け合いを期待しているファンは多いと思いますよ。
「そうですかね(笑)。まあ、その辺はいずれということで」
─後進の育成などは?
「いや、自転車に乗らなくなって、練習の面倒も見てやれないので、弟子を取ったりっていうことは、今のところちょっと考えていないですね」
─それでは、最後にファンの方へのメッセージをお願いします。
「まずは、24年間、応援ありがとうございました。これからは陰ながら競輪界の発展を支えていきたいと思っていますので、応援よろしくお願いします」