通算4度のGI優勝を誇る小嶋敬二選手が闘将列伝に登場です。競輪界ナンバー1とも評される太腿の持ち主で、その剛脚から繰り出される先行・捲りは43歳になった現在も多くのファンを魅了しています。そこで、今回はその小嶋選手にデビューから現在を振り返ってもらい、気になる戦法チェンジのことや今後の目標などについて直撃しました。さらには、あのニックネームの由来についても…。いつもより盛りだくさんの内容となっていますので、最後までじっくりお楽しみ下さい。
─競輪選手を目指したきっかけから教えて下さい。
「日本大学に通っていた当時はオリンピックを目指していて、バルセロナオリンピックには出ることが出来たんですけど、オリンピックを挟んだ前年と翌年の世界選手権で1kmタイムトライアルで3年連続10位だったんですよ。ずっと10位だったことで、自分の限界というか、『こんなもんかな』というラインが見えたというか。努力はしてるのにずっと変わらない10位という順位なら、プロの競輪選手になって違うことに挑戦してみようかっていう気持ちが湧いてきたのが、競輪選手になった最初のきっかけですね。仮に、9位とか1つでも順位が上がったりしてたら、そのまま続けてオリンピックを目指していたかもしれないですけどね。ただ、3年連続10位だったんで、さすがに自分でも(自転車競技に)飽きてきたっていう訳じゃないけど(笑)、競輪選手になってどこまで通用するのかなっていうのも知りたかったですしね」
─そもそも、自転車に乗り始めたのはどんな理由からだったんですか?
「実家がスポーツ店なんですけど中学までは何もやっていなくて、高校に入学した時に両親からスポーツをやって欲しいと言われて。野球やサッカー、陸上などは中学からやってる子が多くて、それだと力の差が出てしまうのでやってもしょうがないかなと。そうなった時に、ウエイトリフティング部と自転車部と相撲部と珍しいのが候補としてあったんです。相撲は体型的にも違うし(笑)、ウエイトリフティングは室内競技だからイヤだなと。ただ、自転車競技なら外にも行けるし、色んな刺激というか楽しみがありそうだなっていうことで選んだんですよね。今振り返ってみるとこの年齢まで競輪選手として頑張れている訳ですし、当時の選択は正しかったのかなと思いますね」
─そして、日本大学を経て、競輪選手としてデビューされたのが94年8月ですから、間もなく選手生活19年が経とうとしているんですね。この19年を振り返ってみていかがですか?
「そうですね…、自分としては20代の頃にもっといい成績を残せたんじゃないかなという気がしないでもないですけど、43歳になっても上位で走れているので、自分としてはよくやってる方なんじゃないかなとは思いますけどね」
─20代の頃は成績を残せる自信はあったんですよね。
「自信はあったと思うんですけど、自信があってもそれが成績に繋がるっていうものでもないし。当時(20代)は神山(雄一郎)さんと吉岡(稔真)君が両横綱っていう感じで競輪界に君臨している時だったんですけど、吉岡君は1つ年下だったし、神山さんも高校時代に先輩として大会などで走っているのを見たことがあったので、自分の中で2~3年で2人のところまでは行けるだろうと思っていたんですよ」
─結果的に神山選手や吉岡選手と同じレベルに辿りつくまでにそれなりの時間を要した訳ですが、その2人と小嶋選手の間にあったものとは何だったんでしょうか?
「それは経験だと思うんですよね。実力はそこまで差はなかったと思うんですけど、競輪はラインで戦うものですから、その辺りのキャリアの差が出ていたのかなと。たとえば、『吉岡なら必ず先行してくれるから4番手でも固めよう』っていうことになるじゃないですか。そうなることによって、地区の結束力は高まっていきますからね。ただ、その当時の中部は(結束力は)そうでもなかったんですよね。今でこそ強くなっていますけど、僕がデビューした当時は自力選手が多くて、マーク選手が少ない時期だったんです。そうなると、自力選手は準決勝などでキレイに振り分けられてしまって、マーク選手がいないから苦しい戦いを強いられてしまうっていう感じですよね。やっぱり、ラインがないと勝つことはかなり難しいですからね」
─それでも、初タイトルとなる03年の高松宮記念杯競輪(以下、宮杯)までデビューから10年掛からなかったですからね。
「今思えば、獲れて良かったなっていう感じですね。日本大学の先輩に坂本勉(青森・57期・引退)さんがいるんですけど、『大卒は大成しない』って言われてて。実際、坂本さんの実力からすればもっとタイトルを獲っても良かったんじゃないかっていう評価もあったくらいで。そういう意味では、僕もそうなのかなと思っていた中で、何とかタイトルを獲ることが出来たので、ホッとした部分はありましたね」
─その後も順調にタイトルを積み重ね、GIを4回、GIIを3回制しました。
「そのGIを4回っていうのは宮杯と寬仁親王牌が2回ずつなので、どっちでもいいんで、もう1回優勝したいですね。同一GIを3回獲ると、その大会の永久シードを貰えるのでね(※開催時S級1班在籍が条件)。それは狙いたいなっていう思いはありますね(笑)。ダービーや競輪祭は獲ると『王』の称号が貰えるので、カッコイイことはカッコイイんですけど、自分としては永久シードを狙える大会が2つもあるので、そっちの方に魅力を感じますね。現に小橋(正義)さんが寬仁親王牌でその永久シードを持ってるじゃないですか。そういうのを見ると格の違いを感じますね」
─では、この2つのGIは毎年気合いを入れて臨んでいるんですね。
「寬仁親王牌に関しては地区プロや全プロの成績も関連してくるので、なかなか獲りにくい部分がありますし、宮杯に関しても、(固定場開催だった)びわこがすごく相性のいい競輪場だったんですけど、びわこが廃止されてから開催場が毎年変わるGIになったので、以前に比べて獲れる確率は低くなってきた感じがするので、少ないチャンスを生かしていければいいかなと思っているんですけど」
─もちろん、その2タイトルに限らず、他のタイトルも目指していくことに変わりはないと思いますが、その中で、現在の大ギアブームについてはいかがですか?
「大ギアに関してはだいぶ踏み慣れてきたので、あとは年齢との戦いになってくるのかなと。初日は調子いいなと思いながら走っても、最終日に走ってみると実は調子悪かったりとか、昔はそういうことはなかったのに、今はそういうことがけっこうあるのでね。自分の中で調整が上手くいったと思ってもダメだったりすることもあるし、上手く全てが噛み合うことを願いながらっていうところですよね。実際、全日本選抜はすごく感じが良かったんですけど、その後に反動が出てしまったので、さすがにこの年齢になると全ての開催でいい成績を残すのは厳しいかなと自分の中で感じてはいるんですよ。その中で、競走得点を上げるのは特別競輪っていうことになってくるので、そこ(特別競輪)に照準を合わせた練習になりますね」
─さらに、小嶋選手は43歳になっても自力勝負を続けていることが多くのファンを惹きつけている要因の1つだと思いますが、自力勝負にはこだわりを持っているんですよね。
「正直、こだわりというのはあんまり無いんですよ。ただ、この年齢だからといって追い込みになりたいっていうのもなくて、逆に若い自力選手と対戦すると、『次に対戦した時はこういうことをすれば勝てるかな』とか考えているので、自分の年齢をあんまり意識していないっていうのはあるかもしれないですね」
─では、将来的に追い込みに戦法チェンジすることは…。
「僕は追い込み選手としての走りに、あまり魅力を感じていないので、今のところは戦法チェンジは考えていないですね」
─確かに、小嶋選手が初手から誰かの番手を回っているのは想像できないですね(笑)。
「そうですね(笑)。それに、僕がこの年齢になっても自力勝負をすることで、喜んでくれるファンの方がいるので、そういう方たちの期待には応えていきたいですね」
─今後についてですが、大きな目標としては先ほどの宮杯と寬仁親王牌での永久シード獲得になると思いますが、身近な部分での目標を教えて下さい。
「これは毎年変わらないんですけど、去年よりいい成績を残すことですね。年齢を重ねていけばそれさえ難しくなっていくとは思うんですけど、優勝回数でもいいし、競走得点でも勝率でも何でもいいと思うんですけど、去年よりもいい成績を残すっていうことを目標に、常に向上心を持ってやっていかないといけないと思うんですよね。それに、あんまり若い選手ばっかりが勝っても、面白くないですから(笑)。今は、神山さんとか(山田)裕仁さんも頑張っているので、それはいい刺激になりますね。僕はそういう先輩を手本に頑張っていきたいと思いますし、若い子たちには僕みたいに歳をとっても自力で頑張っているところを手本にしてもらいたいし、そうやって相乗効果で競輪界がさらに活性化していくといいなとは思いますね」
─ところで、小嶋選手には「社長」というニックネームがついていますが、これにはどんな由来があるんですか?
「S級に上がった時、外並走になった時に浮いてしまったことがあって。それでも僕は捲り切ったり、カマし切ったりしちゃっていたので、最後の最後まで付いていかないといけないと。追い込み選手の人って前が浮いちゃうとそのまま降りちゃったりするじゃないですか。だけど、僕は行ってしまうので、『何があっても小嶋敬二には付いていかないといけない』って感じになって。それで、同級生の(山口)富生君が言ったんですけど、『小嶋敬二は社長なんだ。部下の俺たちマーク選手は付いていかないといけないんだ』と(笑)。『泥舟だと思おうが、何があっても付いていかないといけないんだ、なんせ社長なんだから』って言ったので、それがすっかり定着して『社長』になったんですよね。だから、名付け親は富生君なんですよ」
─それでは最後に、今後の意気込みを含めてファンの方へのメッセージをお願いします。
「最近は調子の波が大きくて、成績が安定していないですけど、落車してケガしてからもうすぐ1年で、それを言い訳にしたくないのでこれからも一生懸命頑張っていきたいと思います。温かい応援をよろしくお願いします」