インタビュー

今回の闘将列伝は愛知の島野浩司選手です。今年で44歳、選手生活25年を越えたベテランは、2月に奈良競輪場で通算400勝を達成するなど、今なおS級1班で輝き続けています。金子貴志選手の初タイトル奪取もあり、好ムードが続く現在の愛知勢。後輩からの刺激も受けつつ、島野選手も持ち前のシャープな差し脚に、さらに磨きをかけていきます。
─最初に、競輪選手になるまでの経緯を教えてください。
「最初は父の勧めで、高校の時に自転車の部活を始めたんです。それで、自転車に乗り始めたんですけど、競輪場などで練習しているうちに選手の方と接する機会があって、卒業するにあたって選手を目指してみたいなと。実家は静岡県だったので、どちらかというと競艇のほうが盛んだったんですけど(笑)、自分は中学のときに何もやらずダラダラしていた方だったので、父としても何かを目指してほしいと思っていたんだと思いますね(笑)」
―高校時代に接した「競輪選手」のどういったところに惹かれたのですか?
「高校一年のときだったかな。同じ学校の卒業生の吉田正広さん(53期・引退)が、地元の豊橋で新人リーグを走っていたんですよね。自分は後輩だったので、応援にいったんですけど、そのときのスピードと走っている姿の格好よさを見て、選手を目指したいなと思いました。それで、高校3年で選手を目指すと決めたときに、伊藤勲さんの道場に入門したんです。親父の勧めもあって、愛好会でもお世話になっていたので、この人だったらと思ってお願いしたら、毎日毎日厳しい練習で。親父も練習をすごく手伝ってくれたので、選手になったときはすごく喜んでくれましたね」
―1988年9月に62期生としてデビューしてから、今年で選手生活25年を経過しました。この25年を振り返ると?
「早いものですね。僕はケガが多いほうで、鎖骨も、肋骨も横突起も、いろいろケガをして、ヘコんだときもあったんですけど、周りの家族や選手や師匠、みんなに助けられてきました。自分でも落車が続いたりしたときは、半分諦めが来ちゃうときがあったんですけど、周りの応援に支えられて、ここまで頑張ってこられました。今年で結婚して20年経つんですけど、結婚してからはずっとS級なので、もうS級には20年以上ですね。自分でも、こんなに長くS級で頑張れるとは思っていなかったんですけど(笑)、コツコツやってきたのが良かったのかなと思います」
―そして今年の2月19日に、奈良競輪場で通算400勝を達成しました。
「でも、なかなか達成できなくて直前(397勝)でずっと足踏みをしてしまっていたんですよね。あのときの奈良は、初日(一次予選)で負けてしまったんですけど、そのあと3連勝できて、取れるときは連続で取れるんだなと(笑)。1着って、取れるときは、何も考えていなくても取れるんですけど、取れなくなると、本当に取れなくて…。それに、毎回その話題(400勝)をされていましたしね(笑)。400勝は自分でもビックリですけど、まだ上には上がいるので、これからも目の前の一戦一戦を頑張って、良い展開が巡ってきたときに必ずモノにできる脚を練習でつけたいですね。さすがにこの年になると、1着をたびたび取ることは難しいんですけど、巡ってきたときにモノにできないと悔しいですから」
―ここまでのレースで、特に思い出に残っているレースを教えてください。
「特別競輪の決勝戦は1回しか乗っていないですけど、寬仁親王牌(97年・前橋)で決勝戦に乗れたことと、あと嬉しかったのは地元の記念(98年)ですかね。あのときの地元記念は、ケガをした次の年であまり良くなかったんですけど、後ろに山口幸二君も付いてくれて、地元だから好きに走っていいよということで、捲り追い込みみたいな形で優勝させてもらったんです。あのときは嬉しかったですね。
 寬仁親王牌で決勝に乗ったときは、もう追い込みになっていたんですよね。同じ年代の、山田裕仁君や小嶋敬二君、あと引退してしまいましたけど山口幸二君や同期のみんながすごく励みになっていて。それは今も同じなんですけどね。当時も同じレースで走れることがあって、だんだん後ろに回る機会が増えて、その巡り合わせがあのときは良かったんですよ。海田和裕君もいて、中部地区にすごく自力型が多かったんですよね。だから、ちょうど(戦法の)シフトチェンジがうまくできた時期でした。あのとき中部に自力型が少なかったら、もしかしたらずっと前を走って、なかなかうまく(追い込みに)変わることができなかったと思いますね。でも、追い込みには自分から意識して変えた感じではないんですよ。知らない間に変わっていました(笑)」
―島野選手といえば切れ味の鋭い差し脚が代名詞ですよね。
「今はあんまり出せていないですけどね(笑)。師匠(伊藤勲)が62歳で引退して、そのときに僕が追い込みになったくらいのときだったので、バイク誘導を毎朝やってくれていたんですよ。それも、ちょうど良かったのかなと思います。10年近く、師匠がバイク誘導をやってくれて、それが20代後半から30代後半まで。師匠には、本当にお世話になりましたし、そのおかげだと思っています。師匠がいなかったら、今の自分はないと思っていますね。今は大ギアブームになって、自分はみんなと比べて体重も少なく、体格も良いほうではないんですけど、付いていってゴールするだけではなく、なんとか迫るくらいにはいきたいなとは思っています。昔みたいに、良い展開のときには差し切れるように。まだ年上でも強い方が一杯いらっしゃいますしね」
―それと今年は愛知勢にとって嬉しい話題が。金子貴志選手が寬仁親王牌で初のGIタイトルを獲得しました。同じ豊橋をホームバンクとする先輩の島野選手にはどう映りましたか?
「家で(中継を)見ていたんですけど、金子は普段から、すごく一生懸命やっているので、優勝を獲ってくれたときは、涙が出るくらいに嬉しかったです。いつも見ていましたからね。あの競りを凌いで、きっちり差し切って優勝だから大したもんですよ。トップクラスで金子が頑張っているから、僕たちももうひと頑張りしたいと思いましたね」
―そういった後輩の頑張りが、島野選手の強さの秘訣にもなっているんですね。
「豊橋は若手が多くて、競輪場にいけば若手がいますから。特に加藤寛治君が街道でもバンクでも常に誘ってくれて、練習を一緒にやっています。一緒にバンクに入れば、深谷(知広)や金子など、すごいメンバーがいるので、練習環境に恵まれていると思いますね。豊橋の若手が盛り上がっているし、ベテラン勢もそれで一緒に練習させてもらっているので良い雰囲気になっていると思います。僕らは力をもらっているだけですけどね(笑)。豊橋はみんな仲が良いんですよ。だから、本当にみんなのおかげですね。家族もそうですし、仲間もそうですし、自分一人ではここまで無理だったと思います。精神力が弱いので(笑)」
―弱いんですか(笑)!? 誘われた若手の練習に付いていくのは、かなりの精神力の強さだと思いますが…。
「そうなんですよ(笑)。でも練習は、誘われたら断らないようにしようと思って。誘ってくれるうちが華ですしね(笑)。それに楽を覚えてしまうと、そっちばっかりにいってしまうと思うし、落ちたくないという気持ちは強いのかな。常に危機感を持ってやっていますからね。僕を目標にしてくれる子がひとりでもいれば、頑張ってきた甲斐もありますし、若い選手と頑張って、一緒に競輪を盛り上げていければいいなと思います」
―では、最後に今後の目標とともに、読者にメッセージをお願いします。
「もう44歳になって、今年もケガをしてしまいましたし、大きな目標はないですけど、ケガのないように、競輪選手として1年でも長く上で戦えるようにコツコツと頑張っていきたいと思います。あとは昔みたいなキレを戻せるように練習して頑張ることですね。この前の豊橋記念でも声援がすごく温かくて、ありがたかったので、これからも温かい声援をよろしくお願いします!」