インタビュー

デビューから24年、現在もS級1班で活躍する内藤宣彦は本人もこの歳でS級1班で活躍出来るとは想像しなかったそうだ。内藤の頑張りの源とは、これからの目標、普段は聞けない選手の本音などを語ってもらった。
チャンスが来た時に勝てるように頑張ります
-そもそも選手になろうと思ったきっかけはどのようなものだったのでしょう?
「親父に青森競輪場に連れていかれたのがきっかけです。小中学生くらいかな。何度か行っている内に、賞金とかを子どもながらに見たりとか、自転車に乗るのが好きだったというのがあったし、自分に合うのかなって思ったというか、頭を使うより身体を使う方が好きでしたから、そう思って自転車部のある高校に進学しました」
-自転車競技を始めてどうでしたか?
「意外と楽しかったのかな(笑)。進学した時に親元を離れて、高校3年間、下宿生活して、選手を目指す形にしたので、競輪選手になるんだぞっていう志を持って、高校生活を過ごしていましたね」
-入学した競輪学校の思い出は?
「学校はとにかくイヤでした(笑)。あの卒業文集にも書いたけど、まったく面白くなかったって書いたんだけど(笑)、とにかく時間に縛られた生活が苦痛でした。寝る時間も起きる時間も決められているから。それから5分前行動といって24時間、時間に制限されているというのが苦痛でしたね」
-競輪学校に入った67期はどんな期でしたか?
「全体的なレベルは高かったんだけど、突出していたのは金古(将人)くらい、あとは清水(敏一)くらいかな。ゴールデンキャップの制度が67期から出来て、それで金古がクリアして、清水が1000mTTの学校記録を出して、1000mTT、3000mTTの期別平均最高タイムもたぶん67期がもっているはず。全体的なレベルは高かったはずなんですけど、…学校を出てから怠ける率も高かったんでしょうね(笑)。あとはまとまっていたような気がします」
-デビューしてからはいかがでしたか?
「なんせ練習は嫌いだったもので、それなりにやっているような感じだったのかな。でも、デビュー2年目にはS級に上がれていたから、けっこう素質あったんじゃない、自分で言うのもなんですけど(笑)。うーん、なんて説明したらいいのかわかんないけど、生活面で親がサポートしてくれる環境でもなくて、最初はお金もなく、競輪選手になって1年目は下宿生活だったんですよ。高校時代から親が仕事の関係で北海道に引越して、秋田県に実家がなくて、親も金がある方じゃなかったから、1年目は下宿屋さんにお世話になっていました。だから、デビュー戦に行く旅費もなくて、一緒に行く先輩に借りてデビュー戦に行きました。競輪場に行って旅費をもらって、先輩に『ありがとうございました』って返しましたね。そういうのもあって、あの頃は、いや、今でも思うことはあるんだけど、恵まれた家庭環境の、俺が思うに坊ちゃんレーサーというヤツには負けないぞっていう気持ちは常にありましたね」
-そのハングリーな気持ちが内藤選手の根底にあるんですね。
でも、40歳を過ぎても特別競輪で頑張れるとご自分でも思っていましたか?
「思うわけがないじゃないですか(笑)。33歳くらいの時だったかな、調子を落としていて、『俺も終わりなんだな…』って思った時もあったんですよ。知り合いのカメラマンさんに『思い出作りに写真撮って』って、色んな有名選手と写真を撮ってもらったりした時期があったんだけど(笑)、こんな長くやるとは思わず、不思議な感じですね。
 ターニングポイントになったのは29歳の時で、アマチュアの弟子を取ったんです。結果的には彼は選手になれなかったですが、あの頃は年齢制限に引っかかって、大卒からド素人で選手を目指したので、ギリギリ、これから伸びてくるってところで終わりました。そのおかげで自分が一緒に練習する形になったというか、自分が強くなりました。素人の子だったから、一から教える感じで、毎日、午前、午後と練習をやっていたんですけど、こっちも師匠だから苦しい顔も見せられないし、妥協も出来ないっていう感じでやっていたら、知らない内に自分が強くなって、びっくりでした。気がついたら、今まで苦しかったところが苦しくなくなったり、今まで抜けなかったのが抜けるようになり、当時S級3班くらいだったと思うけど、予選をどんな展開でもクリア出来るくらいになったんですよね。それでその子がやめても、ある程度、練習は続けるようになったんですよね。当時はインターバルトレーニングとかきつめにやっていて、自分がいうのもなんだけど、別人になったみたいでした」
-さて今まで一番印象に残っているレースは?
「その質問は聞かれると思ったけど、覚えているけど思い浮かばない…、難しいですね。でも、心の中にあるのは弥彦記念を獲れたことかな。今から14年前。恵まれていたけど、最初で最後の記念ですから(笑)。あと、昨年の青森記念4日間とも思い出に残っていますね。3着3着2着3着だったんだけど、勝ち星はないけど、4日間入着出来て、レース内容的にも思い出深いレースだったかなと思います。
 それと、青森の寬仁親王牌(2009年)ですかね…。ダメダメで、3日目の一般戦を走ったんですけど、それが今まで一番悔しい開催でしたね…。5着6着2着1着だったんですけど、地元のビッグレースで、3日目789着がお帰りのレースに乗っていたこと、その前に初日、2日目に飛んでいる時点でダメで、ものすごく悔しかったのを覚えていますね」 」
-これからの目標を教えてください。
「とりあえず借金をなくして選手を引退したい(笑)。じゃなくて、最年長記録を更新したいとか、何歳まで特別で活躍したいとかですか」
-そういうのを求めていました(笑)。
「一応思っているけど、神山(雄一郎)さんいるし、ムリじゃないかな(笑)。  何か1つ更新したいですけどね。最年長のFI優勝とか、その歳でそのクラスでやれるかっていうのが難しいような気がするし、ケガと腰痛が問題ですね。そこさえクリアすれば見えてくるかもしれないですね。あとは、還暦を迎えられればいいな~と思います。でも、周りも若いのばっかりになるのはキツいですよね。だってもう競輪祭(出場メンバー)で上から2番目ですよ(笑)」
-そのようには見えませんし、楽しんでいるように見えますが。
「いや、50歳になって、20代、30代と一緒に生活ってキツいでしょ(笑)。和気あいあいと出来ればいいけどね」
-モチベーションというのは?
「俺の動力の源っていうのはやっぱり金は大きいですよね。おそらく、自分がある程度裕福な家に生まれていたらろくな選手になってないと思います(笑)。そのためにも今日の練習しなきゃならないっていう感じで24年やってまいりましたので(笑)。ギャンブルレーサーっていう本に近いよね(笑)。典型的な昔ながらの競輪選手だと思います」
-そういうタイプの選手は最近は少ないですよね。
「ずっとSSでやっている武田(豊樹)とか、村上(義弘)とか神山さんとか、彼らのモチベーションはどうしているんだろうっていうのはいつも考えますね。今辞めても大丈夫なくらい金があるわけでしょ。なのに、人一倍練習出来る、プレッシャーに耐えきれる精神力というか、とても俺にはマネできないなって思います。いつもSSの人と一緒に走る時に思うんですけど、いつもグレードレースを走っていて、勝って当たり前、凡走出来ない、注目を浴びて走るわけですからね。俺は一選手として臨むわけだけど、ここで赤いパンツを履いて負けられない緊張感ってすごいなって思って。ただ一選手もプレッシャーはあるけど、その選手はもっとすごいプレッシャーの中で敢闘門が開くのを待つわけじゃないですか、見習いたいけど俺は耐えられないな、すごいなって思います」
-でも、同じ状況下だった同地区の山崎芳仁選手には、そういう言葉を出てこなかったですよね(笑)。
「山崎芳仁ねぇ、あいつはすごいんだよ(笑)。あいつの常に研究しているスタイルはすごい。普通じゃ考えられない。タイトルを獲っても、同じセッティングでいかないですから。まだまだよくなるんじゃないか、もっとあるんじゃないかって、あれはマネ出来ないですね。自力でタイトル取るんだから、それが完璧だと普通は思うんだけど、また別のセッティングでいくんだよね。あれは普通の人間じゃマネ出来ないです」
-では、最後にファンにメッセージをどうぞ。
「基本的に強気なレースはないので、ライン重視で、チャンスが来るのを待って、チャンスが来た時に勝つというスタイルで変わらずに頑張ります!」