インタビュー

寬仁親王牌世界選手権記念トーナメント、競輪祭、グランプリ2013など、数々のタイトルを獲り、今もなお競輪界の一線で活躍する金子貴志。だが、その歩んできた道のりは楽なものではなかった。
いつも苦しい練習に耐え、着実に強くなってきた。だが、なかなかタイトルを獲れないでいたが、弟子の深谷知広の存在が大きく、また金子をさらに大きくしてくれた。
ずっと続けてきた高地トレーニングとウエイトトレーニングの成果か大きくなってきたという金子。まだまだ中部を引っ張っていく存在として、その頑張りに期待したい。
またGIを優勝出来るよう、その時が来るまでしっかりやることをやって備えておきたいと思います
-金子貴志選手が、競輪選手を目指そうと思ったきっかけは?
「小さい頃に競輪を見に行ったのがきっかけですかね」
-それは豊橋競輪場ですか?
「そうです。小学生くらいの時に、自転車のレースは好きだったので、それで見に行ったというのはあると思います」
-高校は自転車部だったのでしょうか?
「そうですね、(桜が丘)高校に自転車部があったので、そこに入ればなれるのかなって感じだったんですけど」
-最初から競輪選手を目指していたのですか?
「目指せたらいいなっていう感じで、自転車部に入ったのは3年生からなんですけど。1、2年の時は陸上をやっていたので。
 中学で野球をやっていたんですけど、2年生の時の体育祭でたまたま走り高跳びで優勝しちゃって、それで陸上をやってみないかって感じで言われて、中学3年から陸上をやったんですけど、それだとすごく中途半端だったので、それで、もう少しやりたいなって感じでやっていたんです」
-高校3年生から自転車を始めて、成績はすぐに出たのでしょうか?
「いやー、もう大変でしたね。もっと簡単に行くのかなと思ったけど、筋肉の使い方も全然違ったので、慣れるまで大変でしたね」
-どのくらいで慣れてきましたか?
「どのくらいだったんだろう、もう2、3か月は地獄だと思いました。周回練習からきつくて、ついていけないって感じでしたね」
-そこから3か月くらいで慣れていったんですね。
「たぶん人よりもトレーニングはしていたと思うけど、でも、3か月くらいは話にならなくて、もう卒業する頃くらいにやっと慣れてきた感じでした。それまではもう大変でした」
-タイムはどのくらい出せるようになったんですか?
「ギリギリ競輪学校に受かるか、受からないかくらいのタイムは出せるようになったんですけど」
-それはすごいですよね。
「でも、本当にギリギリだったので、11秒(1km)くらいしか出なくて。競輪学校の試験でもなんとかギリギリ受かったような感じでしたね」
-1回で合格はすごいですよ。
「運がよかったと思います」
-でも、75期はすごいメンバーが多いですよね?
「はい、入ってからが、またすごく大変でした。学校の時にタイムも徐々に上がってきたんですけど、それがまた大変で、周回がついていけないような感じでした。けっこういい班に入っちゃうと、もう周回がきつくて、そういうイメージがありますね、学校時代は」
-75期はどんな期でしたか?
「本当に皆が強いイメージでしたね。特に太田(真一)が飛びぬけて強かったので、刺激はもらいました」
-追いつけみたいな感じで?
「いえ、追いつけみたいな感じはなかったですけど、目標というか、こんな強い人がいるんだなって感じでしたね。競走訓練の時とか特に強かったです」
-デビューしてすぐはどのような感じでしたでしょうか?
「また、それも大変でした。デビュー戦は9着8着9着だったので(苦笑)。慣れるまでは、よくわからない内にレースが終わっている感じでした。難しかったですね、競輪競走自体が」
-格付けはありましたよね。
「A級3班とか4班だったと思います」
-新人リーグを終えてからはどうでした?
「同期とも走っているんですけど、レースを上手く組み立てられない感じでした」
-それが上手く走れるようになってきたのはいつ?
「ずっとトレーニングをやっていたのに、結果が出なくて、それで競技で、それまではずっと1000mをやっていたんですけど、たまたまスプリントを走ってから、2回目で優勝出来て、それがきっかけでしたね。そこで理事長杯(寬仁親王牌世界選手権記念トーナメント)を走れたり、そこから少し意識が変わったというか、きっかけを上手くつかめたような気がしました」
-スプリントをやり始めてから目覚めたような感じ?
「そうですね」
-そこから順調に?
「順調ではなかったですね。でも、それがきっかけになったのは間違いないです」
-その頃から、中部といえば金子選手の存在は大きくなっていきましたよね。
「いやいや、小嶋(敬二)さんとか山田(裕仁)さん、(山口)幸二さんがいて、皆強くて、あの頃は海田(和裕)さんもいたし、まだまだどこにいるかっていうような感じだったと思います」
-そこから特別競輪の常連になってきたのはいつぐらいでしょうか?
「毎回、特別に乗れるようになってきて、ふるさとダービー(2004年4月佐世保)で優勝して、そこからまた競輪が面白くなっていったんです」
-またそこで一段ステップアップしていきましたか?
「そうですね。上位の人たちと、競技がきっかけで走れるようになって、そこから結果がついてきたので、さらに楽しくなったんですよね。
 そこから簡単に獲れるようになるのかなと思ったけど、そこからまた全然勝てなくなって大変でした」
-その時は悩まれたりしたのですか?
「悩んだりはなかったのですけど、もう出来ることをしていって、チャンスが出来た時にとは思っていたんですけど、あまりに長過ぎて、『これはチャンス来るのかな』と思うくらいに、なかなかチャンスは来なかったです。
 それで、深谷(知広)が出てきてくれたので、そこからまた違った感じになりました」
-金子選手は早くからウエイトトレーニングも熱心にされていたと思いますが。
「そうですね、ウエイトとかもナショナルチームでやっていました。でも、疲れてしまうので、なかなか結果に結びつかなくて、それで改良して、よくなってきたのは、ここ5、6年だと思います。ウエイトリフティングに絞ってやるようになって、結果が出るようになったのは、グランプリを獲る前の年からよくなってきました。ギアも規制されなかったので、大ギアが、それがいい方向になってきました」
-なるほど。深谷選手との相乗効果と色々なトレーニングの効果が出てきたんですね。
「そうですね。大ギアが上手くはまりましたね」
-では、今回のギア規制は大丈夫だったんですか?
「その辺はフレームで上手くカバー出来たので、意外と影響なく、そのままいけた感じでした」
-深谷選手との出会いはどんな感じだったんですか?
「深谷と同級生の加藤正法がいるんですけど、そのお父さん(加藤栄一)が選手で、そこがきっかけという感じでした」
-最初に見た感じはどうだったんですか?
「2人とも普通の高校生っていう感じでした。でも、練習を一緒にしている時は目つきが他の選手と違うなというのは、集中力が他の選手とは違うので、力もそうですけど、普通の高校生じゃないなと感じました」
-そこから深谷選手が強くなって連携する機会がかなり増えた時はどうでしたか?
「もう強くなり過ぎちゃって。あの頃は皆が離れていましたからね。ついていくのもキツいような感じだったけど、でも、ついていけば、チャンスはあると思ったので、トレーニングに集中していました」
-そこからまた変わった訳ですね。
「そうですね。またトレーニングの質が変わったような感じでした。深谷と一緒にトレーニングが出来るので。お互いに刺激しあえる仲だったらいいなっていうか、僕が弱くなっちゃったら深谷も刺激がなくなっちゃうと思うので、多少の刺激になればいいかなと思って頑張れていますけど」
-そうやって2人で強くなっていったのですね。
「僕はそうでしたけど、深谷は勝手に強くなっていきました(笑)。それに少しでもくらいついていったらいいかなと思って頑張りました」
-高地トレーニングはどうして行くようになったんですか?
「先輩の青木(佳辰)さん、もう辞めちゃったんですけど、青木さんが高地トレーニングに行っているのは知っていたので、連れて行ってもらったのがきっかけです」
-その効果もあったのですか?
「最初はどうしていいのかもわからなくて大変だったんですけど、とにかく量をやろうと思って、朝から晩までトレーニングしました。それも何年か行って、改良しながらで、最近やっと上手く調整というか、これぐらいやったらこうなるんだろうなというのがわかるようになってきました」
-経験をデータとして金子選手の中に蓄積されていったんですね。
「はい。最初の頃はすごくいいか、すごく悪いかだったので、それだとなかなか上手くいかないので、これならいけるという感覚をつかめるようになってきたのはここ最近です」
-それは一緒に行く人もそうなのですか?
「やっぱりそれは人によってですね。感覚をつかんで、確率は高くなると思います。でも、合う人合わない人はいると思います。それが面白いですね」
-ナショナルチームにいた時の経験もあってですか?
「そういうのももちろんあると思います。それ以外にも色んな為になることもあるし、それをそのままやっていてもなかなか競輪の方にも出なかったので、それを考えて、こういうことをやっていったらとかどういうタイミングでやっていったらいいのかなと、それがここ最近わかり始めてきたかなと思います」
-では、まだまだこれから進化出来そうですね。
「いえ、1年1年が勝負だと思っています。やはり疲れの取れ方が全然違ってきているので、その辺も考えて、トレーニングをしているんですけど。もう本当に1年1年が勝負ですね」
-走っている姿からはそんな感じが受けないですね。金子選手の練習グループは増えているんですか?
「いえ、グループという感じはなく、プロになった以上、個々の意識で強くなる人も弱くなる人もいるし、合宿とかは一緒に行ったりしていますけど。今、元気いいのがいて、すごいトレーニングして、また最近は結果もついてきていて、それがまたいい刺激になっていますね。そういう選手が周りにいっぱいいてくれるんで有難いですね」
-思い出のレースをあげるとしたら?
「親王牌、競輪祭とGPですね。節目で優勝できたのは記憶に残っています」
-GI優勝とグランプリ優勝は違いました?
「そうですね、違うよさがありました」
-初GI優勝の時はどのような心境でしたか?
「やっと優勝できてよかったという感じでしたね…。それで、今回の寬仁親王牌世界選手権記念トーナメントで稲垣(裕之)が優勝したのを見て、なんか自分の優勝した時を思い出しました。稲垣も相当長かったですからね。感動しました。それに、いい刺激をもらいました!」
-グランプリの時はどうでした?
「グランプリは本当に…。山田さんがグランプリは別格だと言っていたんですけど、その意味がわかったというか、走れるだけで凄く興奮していたので。もう一回乗れたらいいなという気持ちもあるし、まさか自分が優勝するとは思っていなかったので。しかも深谷と一緒に走れて、走っていただけでも周回中とか興奮していたので、優勝の実感がなかったですよね。実感したのは、次の年に入ってGPチャンピオンユニフォームを着て良い気持ちで走れたので楽しかったです」
-また、もう一度というのはありますよね。
「そうですね」
-今後の目標を教えてください。
「またGIの決勝に乗って、優勝したいですね。その時までやる事をやって、備えておきたいですね。また競技の方もまだまだ頑張りたいなというのもあります。それがきっかけで、頑張れているんで、スプリントで出来るところまでやっていきたいなというのはあります」
-では、最後にファンにメッセージをどうぞ。
「声援が力になっています。寬仁親王牌世界選手権記念トーナメントを優勝した時にすごく暖かい声援があって、これの為だったらどんな練習でも耐えられるという思いがあります、その為に頑張っているので、また声援を送っていただけたら嬉しいですね!」

第22回寬仁親王牌世界選手権記念トーナメントを優勝

第55回競輪祭を優勝

KEIRINグランプリ2013を優勝