バンクのつぶやき



 今年の春、JKAから「少し原稿を書いてください」というお誘いをいただいた。3年前に74歳で記者生活を終えたが、自宅には古い写真や歴史的な資料もあり喜んでお引き受けした。
 「バンクのつぶやき」というタイトルは現役時代のもので、元の職場の許可を得て使わせてもらい、競輪の歴史を振り返りながら悲喜こもごもの話題をお伝えできればと思う。(敬称は省略します)
 3月24日、「ダービー」を制覇した村上義弘(京都)の笑顔をテレビで見、これが日本一の座を得た選手が味わう「会心の笑顔」なのかと感動した。その時、「競輪の神様」といわれた日本名輪会・松本勝明会長の笑顔がふっと頭に浮かんだ。松本は村上と同郷のOBで約60年前にダービーを連覇し、現役時代には通算成績1341勝を記録した大先輩だ。そうした意味も含めて初回の「バンクのつぶやき」は松本らビッグスターの引退に焦点を当ててみた。
 松本勝明(写真・期前)が引退したのは昭和56(1981)年だが、私はその引退に深くかわった。その手始めは、引退する2~3年前に「失礼ですが、引退を決意したら教えてください」とお願いした。
 彼は驚いた様子だったが、「競輪を担当して12~13年になるのに引退式を見たことがなく、あなたを第2の人生に送り出す時、盛大な引退式をさせてほしいと思うのです」と心の底から訴えた。
 私の願いは実現して京都向日町競輪場で引退式が行われ、式の後、日本競輪学校に名誉教官として単身赴任。約24年にわたって新人選手の育成に励むかたわら、85歳になった今も日本名輪会会長として競輪界の発展に貢献しているのは大勢のファンが知るところ。
 引退式の翌年、同教官から「自宅に優勝カップがたくさんあるので引退記念のシルシに1つ差し上げたい」という話があった。それに対して、「松本勝明賞」を創設してファンにカップを贈る方が良策ではーと返事した。同教官はためらったが、向日町競輪の施行者と共に彼の自宅を訪ねてカップを拝見。「これはファンに喜んでもらえる」という確信のもとに昭和57(1982)年に第1回大会が開かれた。
 当時、人の名前が付いた「冠レース」は、昭和23(1948)年に小倉で日本初の競輪場を開設した小倉市(現北九州市)の浜田良祐市長のレースだけだったが、「松本勝明賞」の創設を機に著名選手のタイトルレースは全国に広まっていった。
 松本教官についてもう少し説明を加えると「人生の不思議な巡り合わせ」にたどり着く。彼は選手になる前、医師になることを志望。それにはドイツ語を学ばなければと東京外国語大学を受験。その試験に合格した後、知人に誘われて競輪を見物。「これなら僕にもできるのではないか」と思い大学を中退して競輪の世界に入った。もちろん、その時は1341勝という記録など夢想もしなかっただろうが、以後の努力を知る選手の話を総合すると「大記録は当然の帰結」だとのこと。本当に凄い人が競輪への道を選んだものだ。
 松本勝明が引退した翌年(昭和57=1982年)、「貴公子」とか「人間コンピューター」という愛称で親しまれた22期生の福島正幸(写真)が「競輪祭」の開催中、突然、引退を申し出た。35期生の中野浩一、41期生の井上茂徳をはじめ同レースに参加中の選手はもとより全国のファンもびっくりしたのではなかろうか。
 無理もないと思う。福島は「貴公子」という愛称が示すとおり端正な顔つきで、レース運びもコンピューターのように精巧、かつ正確だという定評があった。その上、競輪祭と新人王戦を含め小倉で大レースを4回も制覇するなど、昭和40年代の逸材として人気があった。その福島が現役を退くというのだ。
 原因は「2走目に2着に敗退したこと」だった。同シリーズ、福島の初戦は8着。絶対に勝てると思った位置から仕掛けた2走目は堂田将治に交わされた。堂田が44期生の実力者であることは福島自身が十分知っていたが、この2着が「人間コンピューター」の自信をぐらつかせ、翌日、共同記者会見の場で引退を表明した。
 その様子を師匠の鈴木保巳(第1期生・平成20=2008年に逝去)が見ていた。鈴木は群馬県の前橋高時代に野球部の主将として甲子園に出場。大学卒業後はプロに転じ、引退後は競輪評論家としてテレビ解説や、JKA発行の雑誌「月刊競輪」などにかかわった人で、もし、鈴木という師匠に出会わなかったら福島が大成したかどうか。
 それはともかく、引退した福島は半年の間「餃子(ぎょうざ)店」に住み込みで働き、地元の前橋市に夫人と共に店を開くかたわら、これまた評論家として活躍した。この前後のことは「月刊競輪」を愛読していたファンの皆さんなら覚えておられると思う。
 ここに掲載した福島の写真は昭和58(1983)年1月号の「月刊競輪」から引用したが、当時、福島はこんなことを話していた。「中野(浩一)君にバトンタッチするまで頑張る。それが競輪界やファンの皆さんに対する僕の使命であり恩返しだと思う」と。
 現役時代に3回も賞金王に輝いた福島は、引退後、餃子店を経営しながら80年間も続いた前橋市の老舗(しにせ)の銘菓「片(かた)原(はら)饅頭(まんじゅう)」で働いた。それまで経営していた人に後継者がなく、福島が店を譲渡してもらい、同店で働いていた職人さんの指導を受け「ふくまんじゅう」と名付けて販売した。その後、「ふくまんじゅう」は以前の「片原饅頭」の名に戻り、今では同県高崎市の百貨店でも販売され非常に忙しくなったとか。そのため、前橋の餃子店は去年の秋に店を閉じ(軽井沢にある支店は経営中)、今後は片原饅頭に心血を注ぐという。
 これだけでは福島の人生は語り尽くせないが、この話は朝日新聞などで紹介され、地元の上毛(じょうもう)新聞には30回にわたって掲載されるなど、競輪界や群馬県の発展に尽くした功績は末永く語り継がれるだろう。

 続いて中野浩一(左上の写真)、井上茂徳(右上)、滝澤正光(左下=43期生)、吉岡稔真(右下=65期生)に移りたい。ご承知のように彼らは近代競輪の花形として活躍し、平成4(1994)年にバンクを去った中野をはじめ全員が平成時代に入って引退した。
 その中で、「世界のナカノ」と呼ばれながら競輪界の重鎮として活躍する中野。滝澤は日本競輪学校の校長に就任した後、女子レーサーを世に送り、その都度、業界のニュースになっている。同じように井上、吉岡もテレビ解説などで東奔西走する日が続き、私自身、今後もいろんな形で彼らを紹介し、新しい話題を提供する機会もある。従って、ここでは紙数の関係で中野を中心にした話をさせていただこう。
 中野の引退式には、故寬仁親王殿下がお出ましになり、「私が最も尊敬する叔父様(故高松宮殿下)に次いで私も優勝杯を出したが、中野君は叔父様の杯も僕の杯も手にしてくれなかった。それが非常に残念だが、今後も競輪のために頑張ってください」とあいさつされた。
 過ぎ去った年月を振り返りながら、じっと聞き入る中野の心に何が去来したのだろう。彼は昭和61(1986)年に世界選手権大会で10連覇を達成して「総理大臣顕彰」を受賞したが、その2年前(1984年=8連覇を達成した年)には、昭和天皇主催の園遊会に招かれ、陛下から「プロの競輪選手としてどうですか」とお言葉をかけられた。
 中野にとって、というより、競輪界最大の喜びに感激した後、彼は心を新たにして「ある目標」に挑んだと思われる。その目標とは「高松宮記念杯競輪」を制覇してグランドスラムを達成することだった。
 残念ながら、目標は達せられなかったが、彼は注目すべき記録を残している。それは、デビューして3年6カ月で特別競輪(GⅠ)を制覇したことだ。参考までに数字を上げると、滝澤は4年11か月、神山雄一郎は5年4カ月、村上義弘は8年半で達成している。
 後日、この数字は吉岡稔真(1年11カ月)、深谷知広(1年10カ月)に書き換えられたが、中野の功績はこうしたところにも刻まれている。競輪の奥深さを知る隠れた資料といってもいいだろう。ついでながら、福島、中野、吉岡の3人はいずれも約17年で選手生活を終えている。
 筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 77歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。