バンクのつぶやき



 私は1985(昭和60)年ごろから数年間、勤務先の新聞社の許可を得て井川知久というペンネームでJKA発行の「月刊競輪」の原稿を書かせてもらった。中野浩一(福岡)、井上茂徳(佐賀)、滝澤正光(千葉)=以下、選手の敬称略=がトップスターとして活躍していた時代のことだ。
 今回はそのころの話から進めたいが、1989(平成元年)5月30日、大津市は井上茂徳と滝澤正光を大阪に招いて「第40回高松宮杯競輪」(当時の名称)」=大津びわこ競輪場=の前夜祭を開き、約1400人のファンが詰めかけた。今でも当日の日付や参加者の数を覚えているのは、開始直前になって司会の大役が私に回ってきたからだ。
 その日、世界選手権10連覇の中野は所用で参加できず、話題は井上と滝澤に集中した。なぜなら、井上は前年(1988年)の高松宮杯で史上初のグランドスラム(GIレースを総て制覇)を達成。一方、今回のレースで滝澤が勝てば「高松宮杯V4」(女子選手では奈良の田中和子が高松宮妃賜杯において連続V4)という記録が生まれる。そうした伏線もあって前夜祭は盛り上がり、注目された同年の高松宮杯は滝澤のV4で幕を閉じた。
 それから24年が過ぎ、昨今では井上は評論家として全国を飛び回り、滝澤は日本競輪学校長として後進の指導にあたる毎日だが、前夜祭のあと、「次の月刊競輪にはどんな記事を書こうか」とつぶやいたところ、滝澤は「井川というのはペンネームですか。うちの親父は井川ファンですよ」と驚き、これがご縁となって同年の秋、ご両親と滝澤夫妻が暮らす千葉の実家に招かれた。同選手の夫人が「ミス日本」であったことは競輪ファンならよくご存じのはず。
 両親とは初対面だったが、父・益雄さんは高原永伍(神奈川・13期生)の全盛時代から競輪に親しんだ人で話は大いに弾んだ。その中で、滝澤親子は高原を目標に血のにじむような練習を繰り返したという話になった。では、高原とはどんな選手だったのか、少し紹介してみよう。
 1963(昭和38)年、小倉競輪祭で「新鋭王座(後の競輪祭新人王戦)」というタイトルレースが誕生。同レースの決勝戦に進出した選手は「競輪祭」にも参加できるという特典も付いた。驚いたことに23歳の高原は両方のタイトルを独り占めにし、日本屈指の先行選手と称される実力者になり、競輪界初の1000万円レーサー(年間の賞金獲得額)にもなった。
 高原の快挙から16年後の1979(昭和54)年、滝澤は43期生の「適性組」でデビューした。適性組とは野球、陸上競技、スケートなど自転車以外のスポーツから競輪に転じた選手のことで、39期生の試験(1975=昭和50年)から技能試験とは別に適性試験制度を導入。翌年は22人の適性組が競輪学校に入学した。滝澤もこれにならってバレーボールに精を出した高校時代に別れを告げてプロ入りした。
 こうした背景の中で、滝澤の父・益雄さんは高原を目標にすさまじい執念で早朝から「単車誘導練習」を始め、練習を終えると会社に出勤した。もちろん、滝澤は他の場所でも練習したが、彼は不平ひとつ言わず父に従った。今にして思えば「滝澤の凄さ」はこの猛練習の成果でもあったと思う。
 だが、初期の成績は平凡だった。彼は1979年4月、大津びわこでデビューし成績は161(2日目は落再入6着)。以後も脚力は伸びず、同年8月の大宮81①でようやく初優勝を飾ったが、この優勝はデビューから7場所目。本当に高原の領域に達する選手になるのだろうかと思われた。
 その後の滝澤は、初戦から19場所目の1980年1月、花月園でA級に特進。翌81(昭和56)年1月に和歌山で記念レース(GIII)を初制覇した。当時はA級とB級の2層制だが、対戦相手は井上茂徳をはじめ、30期生の高橋健二(愛知)、36期生の菅田順和(宮城)といった粒よりの顔ぶれ。
 余談になるが、高橋健二は1975(昭和50)年に千葉ダービーを制覇した。この優勝は30期台の選手では初のビッグタイトルで、同レースをテレビで観戦しつつ将来を夢見たのがデビューを目前にした35期生の中野浩一だった。
 後年、滝澤は「怪物」というニックネームでファンに親しまれ、選手たちには恐れられたが、1987(昭和62)年4月の~四日市記念から同年9月の宇都宮オールスターにかけてS級戦13連続優勝という新記録を樹立。高原永伍に匹敵するスターになった。両親の喜びは想像にあまりある。
 滝澤家ではいろんな話をしたが、翌朝、父は単車、息子は自転車に乗って練習に出かけ、母親と夫人が見送った。早朝練習は約40キロで千葉県内の印旛沼(いんばぬま)周辺を走ると聞いた。噂では勝新太郎が演じた「座頭市」の故郷がこの沼の近くらしいが、親子は黙々と走り続けたことだろう。
 ご存じのように競輪は他の選手と連携しながら勝機を目指して戦い、力強い仲間が多ければ多いほど優勝のチャンスがある。ファンはそれを「ライン」とか「人脈」といっているが、滝澤は人脈にも恵まれ最終的にはKEIRINグランプリを2回、GI(特別競輪)を12回、GIII(記念競輪)を92回制覇し、井上茂徳に次いで史上2人目のグランドスラマーという輝かしい記録を残して2008(平成20)年6月、29年3カ月にわたる選手生活から引退して日本競輪学校に赴任した。
 千葉競輪の施行者・千葉市も2008年の記念競輪から「滝澤正光杯」を創設してその功績を称えることになった。なお、彼がB級からS級戦を通じて優勝を逃したのは甲子園、広島、佐世保の3競輪場(当時は50競輪場)だけだった。
 引退後、両親や夫人に会って現役時代の全成績を渡し、競輪学校を訪ねて労をねぎらって別れたが、その時、ふっと昭和60年代の「月刊競輪」に載った記事が頭に浮かんだ。それには、滝澤の物腰の柔らかさや、大勢の人に好感を持たれる言葉遣いなどは母親の厳しい躾(しつけ)によるものと書いてあった。「怪物」と恐れられながら全国のファンを魅了した裏にはこうした逸話があったことも付け加えておこう。
 筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。