バンクのつぶやき



 私は平成21(2009)年に「近畿自転車競技会45年史」という競輪の歴史を書き終え、翌22年、75歳で現役を退いた。その間、最初の8年間は速記者として、あとの45年間は競輪と共に暮らし53年間の記者生活は瞬く間に過ぎた。
 引退後、何をしようかと思った時、「サライ」という雑誌に「民俗学者・柳田國男」のことを書いた記事が載った。「遠野物語」で知られる人で、同書によると、晩年の76~86歳の10年間に渾身の力を絞って執筆にあたったという。
 これを読んで気持ちを入れ替え、3年近い日程で古いフィルムや記録を整理した。その結果、およそ5000人の選手の写真と競輪の創成期から現代までの資料の整理がついた。
 次に紹介する話もその一つで、「競輪の文化遺産」として後世に残る話ではないかと思いながら筆を進めてみたい。
 左上の写真は、大阪・ミナミの繁華街にあった「メトロ」というキャバレーを改装し「場外車券売場」にする目的で描かれた7階建ての完成予定図だ。終戦後、メトロは東洋一のキャバレーといわれ、大阪の道頓堀周辺の名所にもなった。
 年代は分からないが、貴重な資料とも思えるそのポスターには、「競輪は中野浩一選手を代表とするプロスポーツで、全国に約3000万人のファンを持っています」とあるのでおそらく昭和50年代半ばのものだと推測できる。
 「メトロ場外」を紹介するのに「競輪の文化遺産」という大げさな表現をしたが、完成図(ポスター)の横に作家の藤本義一、難波利三、西村京太郎、映画監督の市川崑、俳優の中村敦夫、藤田まこと、女優の岸恵子、司会者の浜村淳といった著名人が執筆した競輪にかかわる寄稿文が載っている。
 余談だが、平成14(2002)年の全日本選抜(岸和田)の開催中、今は亡き藤本義一氏(写真の右端、左は中野浩一)がテレビ出演された時、「以前、記事にさせてもらったのですが、先生は鐘を叩かれていたことがおありなのですね」と尋ねた。その答えがポスターに掲載されているのだ。
 本文は、「二十五年前、ぼくは競輪場の、あのスリバチの底で、激しい風に吹かれながら、ジャンを打っていた。そこには、ぼくと選手たちの青春と人生があった。選手たちの燃える表情は、人生の厳しさそのものだった。今、ファンの一人となって、ぼくはスタンドからスリバチを見下ろしながら、考えにふける。そして、やはり、そこに人生の一断面を見る」(原文のまま)と書かれている。
 年代を逆算すると藤本氏が学生だった約60年前、大阪住之江競輪(昭和39=1964年に休止)で打鐘要員として働いていたころの話ではなかろうか。今となってはこの寄稿文を掲載する許可も、当時の話を聞かせてもらうこともできないのが残念である。
 次は「木枯し紋次郎」で一世を風靡(ふうび)した中村敦夫氏の原稿。こちらはJKAを通じて掲載の了解を得たので、これも原文のまま紹介させていただこう。
 「私の競輪は、単なる趣味を超えて、物事を競輪的に考える習慣さえ身についてしまった。レースを推理するには、その人独特のスタイルがあるものだ。そのスタイルを人生や組織、あるいは政治などにあてはめてみると、意外に物事の流れが明確に見えてくる。人が集まる場所には、必ず競走があるからだろうか」と結んでいる。
 紙数の関係で両氏の原稿しか掲載できないが、これほど真剣に取り組みながら「メトロ場外」は実現しなかった。なぜ、夢と消えたのか。その理由は分からないが、昭和50年代の競輪は大変な勢いで成長し、大阪の中心部に大規模な場外ができれば観客の整理が困難になるという危惧でもあったのか。競輪界にとって歴史的なチャンスを逃したのではー。
 もう少し場外の話を続けたいが、今年の1月、徳島市内に全国で66番目にあたる「サテライト徳島」がオープンした(写真左)。運営を管理する施行者は徳島市に隣接する小松島市で、大きくて美しい施設がファンを魅了しているそうだ。
 同場外のオーナーは昭和時代の競輪を熟知し、徳島市の協力を得ながら周辺の繁栄と環境に配慮し、「古き、良き時代の競輪」の復活を目指して前進したいという。
 なお、管理施行者の小松島市は四国の一番東側に位置し、人口も4万人ほどの小さな市だが、市内にある競輪場を守り、時には全国規模の宣伝に力を注いだこともある。
 一例が平成7(1995)年に東京ドームで開かれた自転車競技の「ワールドカップ東京大会」でのことだ。若い世代には何の話かと思われそうだが、ここには全国屈指といわれる「後楽園競輪場」が存在し、日本選手権競輪もたびたび開かれた。
 昭和48(1973)に後楽園は休止になったが、後日、地下に自転車用の走路がつくられ、「ワールドカップ」を開催。その開催中に小松島市が大きな役割をはたしたのだ。
 それが右上の写真で、当時の小松島・西川市長(右端)をはじめ「阿波踊り」の一団が走路上で華麗な踊りを披露し、競輪の再興と同市の存在をアピールした。今年、開設した「サテライト徳島」もあの時の阿波踊りのような熱気を全国のファンに伝えていくのではなかろうか。(一部、敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。