去年(平成25年)の暮れ、京都・清水寺の森清範貫主が大きな和紙に「輪」という字を揮毫(きごう)された時、胸が高鳴るのを覚えた。
「輪」という字には、2020年に日本での開催が決まった「東京五輪」を祝う輪とか、富士山が世界遺産になり、世界中の人が「大きな輪」を描いて仲良くしようといった意味があり、さらには「競輪繁栄の輪」という意味も秘められているように思えたからだ。
振り返れば、去年は小倉で競輪が誕生して65年、静岡の修善寺の近くに日本競輪学校が完成して45年という記念すべき年だった。にもかかわらず、日本の経済的な事情や、異常天候による猛暑、豪雨、竜巻、早過ぎる寒波の訪れなどが競輪界の慶事を希薄にしたのかもしれない。
だが、私には最良の年だった。というのは、3年を目標に手がけた競輪の写真や資料の整理がほぼ終了した時、JKAから「原稿をー」という話をいただいた。本来なら78歳の高齢を理由に遠慮すべきだが、ここに掲載した安福洋一OB(奈良・41期)のような珍しい写真や記録を残したいと思って不慣れなパソコンにしがみつくことになった。
安福は大阪府立摂津高校を卒業後、1977(昭和52)年に適性試験(陸上競技)で競輪学校に入学、翌78年にプロになった。この制度は2期前の39期から採用され22人が適性組でデビュー。以後、野球、陸上、柔道、バレーなどに精を出した高校生が続々と競輪を目指したものだった。
安福もその1人だが、早い段階で彼を取り上げたいと思ったのは、オールスター競輪に連続22回出場した功績と、社会的な常識から逸脱して「奈良少年院」に送られた若者を前に涙ながらに訴えた思い出が忘れられないからだ。
2002(平成14)年11月11日、安福は奈良市内の少年院の広い部屋で「夢」という題で講演。100人を超える少年たちの前で心境を語った(上の写真)。少年たちがどのような形で法律に触れて少年院に収容されたのか分からないが、内容は次のようなものだった。
安福は競輪学校で約1年間、厳しい訓練を受け、卒業を前にした時、東京の選手としてデビューした。関東には強い選手が多く、そこで鍛えられたら強くなると勧めてくれた人がいたからだ。
だが、歓楽街の近くで暮らして失敗した。プロの賞金が良かったのでレースが終わると遊興にふけり、気が付いた時は井上茂徳をはじめ同期生に大きく引き離された。
そこで、気持ちを切り替えて奈良に転籍。毎朝、午前3時に起き、祐子夫人が運転する自動車を追走する練習に明け暮れた。「普通の自動車なら30万㌔も走れば完全にダメになるでしょうが、人間は壊れることなく、僕は家内の自動車を追っかけて34万㌔走り、これからもこの練習を続けます。それが、自分に与えられた人生であり、夢につながると思って努力しています」と語る言葉に力がこもった。
「僕は不器用なので何回も落車。ひどい時は左腕の骨が飛び出し5カ月間も動かせない時もあった。それでも記念競輪や特別競輪で優勝するような選手になりたい。それが僕と家内の夢であり使命なのです。今、皆さんは厳しくて苦しい環境にあると思いますが、どうか、大きな夢を抱いて頑張ってください」といって絶句した。
その瞬間、少年たちの肩が揺れたのを見た。彼らも息を飲んで話を聞き、自らの生い立ちと少年院に収容されるまでのことを反省して泣き出したのだろう。こうして講演は終わり、それから8年後の2010(平成22)年2月、安福は32年間の現役生活に別れを告げた。
上の写真は送別会で写したものだが、幸せそうな家族の笑顔を見ながら、1984(昭和59)年から2005(平成17)年にかけて22回もオールスター競輪に連続出場したころの安福の戦績などを振り返ってみたい。
周知のように、オールスター競輪は他のビッグレースと違ってファン投票によって出場者が決まり、現役選手で安福を超えるのは鈴木誠の27回、神山雄一郎と山田裕仁の24回ぐらいではないかと思う。ただし、この数字は私のメモなので間違いがあれば、後日、訂正させていただきたい。
さて、注目の安福だが、22回の出場中、1着は7回あったが決勝戦には1回も進出できなかった。その悔しさは最後まで続き、結果的には特別競輪も記念競輪も優勝することなく現役を去ることになった。
少年院で講演中、突然、絶句したのはそうした悔しい思いが脳裏をよぎったのかもしれない。しかし、安福は平然として「相手が強過ぎるし、僕自身にも運がない。だから夢を持って戦っているんです」と軽く笑い流していた。
引退後の安福は、心機一転、競輪界に恩返しをしようと早稲田大学院のスポーツ研究室で「トップスポーツ・マネジメント」について学んだ。現時点では効果を発揮する場所はないが、1月31日から始まる奈良記念では4日間ともテレビで解説するそうだから期待しておこう。
最後に上記の家族写真について少し説明させていただこう。ここには長男の洋徳(ひろのり=競輪100期生)が写っていないが、洋徳は上昇気流に乗りはじめ、長女の祐未(ゆうみ)は今月、東北高校時代の友人(プロゴルファー・藤本佳則)と挙式するという。この写真ではどちらが長女の祐未か、次女の千乃(ちの)か私には分からないが、ただ一つ、はっきりしているのは「安福家には春らんまんの幸せ」が訪れたといってもいいのではなかろうか。(敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。