バンクのつぶやき



 世界中が注目した2014年2月の「ソチ五輪」は終わり、日本勢は歴代2位の8個のメダルを獲得して晴れやかに帰国。その様子は連日、テレビや新聞で報道された。一方、この期間中、関東を中心にした2度の豪雪は45年ぶりとか、120年ぶりとかいわれて大きな被害をもたらし、競輪や競馬など公営競技にも影響した。
 豪雪の始まりは2月8日。「ソチ五輪」の開会式と同じ日のことだった。その日、西日本から降り始めた雪は、大会初日を迎えた高松競輪の「全日本選抜」を中止順延に追い込み、最終的には前橋、宇都宮、奈良、和歌山競輪なども開催中止、または順延になり、東京競馬にいたっては2週連続して中止になるなど異例ともいえる「想定外の豪雪」となり多数の死傷者が出た。
 順延した「全日本選抜」は翌9日に再スタートしたが、振り返れば高松でGⅠレースが順延したのは1973(昭和48)年10月のオールスター競輪以来実に41年ぶりのこと。あの時は「3強」といわれた阿部道、福島正幸、田中博を中心に壮烈な戦いとなり、福島が優勝したのを覚えているファンも多いだろう。
 余談だが、吹雪の最中に長野県の渡辺桂(期前・引退)が埼玉県の村田一男(31期・引退)に「豪雪見舞い」の電話をしたという。渡辺は81歳、村田は60歳元選手の二人だが双方の出会いが面白い。というのは、村田は福島正幸が高松で優勝した1973年にプロ入りしたが、デビュー戦の前橋で村田は渡辺の失格が原因で落車した。村田にとっては悔しい1戦だが、この落車で2人の友好関係が生まれ、豪雪を心配した渡辺が村田の安否を気遣って電話をかけたのだ。1回の失格と落車がもとで40年間も交友関係が続くとは何とも羨ましいが、競輪界にはこのような話は非常に多い。
 話は戻るが、全日本選抜3日目の2月11日、新潟県の中学3年の平野歩夢(あゆむ)という15歳2カ月の少年が、「ソチ五輪」のスノーボート男子ハーフパイプで銀メダルを獲得した。これは、1998(平成10)年の長野五輪・ショートトラック男子500メートルで金メダルを手にした西谷岳文の19歳1カ月を破る日本選手の冬季五輪史上最年少記録だという。西谷の記録はこうして更新されたが、彼はその後、阪南大学を経て2006(平成18)年に適性組の93期生(日本競輪学校では93回生という表現)として京都からデビューした。


 ここで上記の写真説明に移るが、左側は2006年7月、名古屋競輪場で行われた近畿と中部地区の93期生の技能組の第1次合同試験の様子で、同年は学科試験を廃止、年齢制限も撤廃されて39歳の受験生もいた。その結果、技能組は281人、適性組は89人が受験した。競輪以外のあらゆるスポーツからいかに多くの若者が競輪選手を目指して努力したことか。
 そういえば、怪童といわれた21期生の伊藤繁(神奈川)、48期生の市村和昭(長野)、88期生の武田豊樹(茨城)もスケート選手だったし、「ソチ五輪」の日本選手団の団長を務めた橋本聖子国会議員(右の写真)も冬季五輪ではスピードスケート女子1500メートルで銅メダルを手にし、自転車競技でも活躍した人でもある。
 右上の写真は1995(平成7)年に兵庫県明石市で「人・人材・ふれあい・自転車」という題で講演した時に撮影したものだが、橋本議員は現在、公益財団法人日本自転車競技連盟の会長として活躍。2020年の「東京五輪」を目標にして有能な人材の育成に尽力されることだろう。
 ここで武田豊樹のことを少し紹介したいが、彼は1999(平成11)年に兵庫県で行われた「全日本実業団自転車競技大会」に清水宏保とともに参加した。当時の武田は、「長野五輪」で金メダルに輝いた清水の陰に隠れた存在だったが、兵庫大会の1000メートルタイムトライアルでは清水が1分9秒138で6位に終わったのに対し、武田は1分7秒174で優勝。その成果を掲げて競輪界に転向し現在の地位を築いたといってもいいだろう。余談だが、長野大会では41期生の井上茂徳(現在は競輪評論家)が聖火ランナーのひとりとして参加したことも付け加えておきたい。
 日本の選手が8個のメダルを獲得した「ソチ五輪」は無事に終了したが、次はオリンピックに関係のある下の写真を紹介しよう。これは岡山県の妹尾誠OB(旧姓田中・28期生)が、2006(平成18)年に100歳で亡くなった「父・田中平太郎の形見」として私に託してくれた非常に大切な資料である。


 田中平太郎は1948(昭和23)年に発足した第1回小倉競輪に出走した選手だが、左の写真は78年前(1936年)の「ベルリン・オリンピック」の出場記念に撮影されたもので、田中と同様に第1回小倉競輪に出場した村上二三九OB(愛知)の姿も見える。
 中央と右の撮影年月は不明だが、中央の写真には「陸軍戸山學校にて」とあり、右の写真には「大連大会記念」とある。大連とは中国東北部にあった地名で、どちらも第2次世界大戦中に行われたアマチュア大会のものだ。
 なぜ、この写真を掲載したかといえば、日本には80年も前からオリンピック参加を目指してペダルを踏み続けた先輩が大勢いて、彼らが競輪発祥の礎(いしずえ)となった歴史を現代に伝えたかったからだ。では、彼らがどうして競輪の創設に加わったのか。いつか、その逸話も書いてみたい。(敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。