バンクのつぶやき



 4月16日、修学旅行に向かう高校生ら約300人が乗っていた韓国の旅客船が沈没。船内に閉じ込められた乗客の安否を気遣う両親や親族の痛々しい姿が連日のように報道され、死者の数が日ごとに増えていった。私自身も長男を不慮の事故で死なせているだけに遺族の悲しみに胸が痛む。今回は、この事故を耳にした瞬間、競輪選手が遭遇した幾つかのことを思い出したが、それを紹介する前に私の長男の死を先に書かせていただこう。
 今から半世紀も前の話だが、私が26歳の時、男の子が生まれた。それから数時間後、産着の腹のあたりが鮮血に染まり救急車で病院に運ばれたが、そこで命を落とした。死因は臍帯出血といって産後に処理する「臍の緒(へそのお)」のくくり方に原因があったのではないかとのことだった。
 この事実を家内が知ると発狂する恐れもあり、助産婦がくれた出生証明を持って区役所に行き、すでに亡くなった子を長男として届け、何日もかけて死んだことを家内に告げた。この話、競輪とは無関係だが、それから5年後の1967(昭和42)年に事故にまつわる「特ダネ記事」を書き、それがご縁になって本格的に競輪記者を目指すことになった。
 だが、半世紀が過ぎた今でも長男の産声が耳に残り、今回のような事故が起こるたびに遺族の悲しみと苦悩が身にしみる。いつか、その特ダネを書きたいが、ここでは「競輪史」に残る遭難事故を振り返ってみよう。

 左の写真は文字が薄くて読みづらいが、1954(昭和29)年9月26日、北海道一帯を襲った台風で函館と青森を結ぶ青函連絡船・洞爺丸が沈没。死者行方不明1152人という大惨事が発生した。遠い昔のことなので自由国民社発行の「読める年表」をはじめ、各種の記録を参考にして話を進めるが、同船はこの日、強い風雨をついて函館港を出港。途中で一段と風雨が強くなり危険を避けて防波堤の側に停泊したが、船は風に押し戻され座礁して転覆。札幌競輪(1960・昭和35年に廃止)の出走を終えて家路を急ぐ8人の競輪選手(1人は行方不明)を含む大勢の尊い命が奪われた。
 左上の写真は同年11月に発行した日本競輪選手会の会報「プロサイクリスト」が訃報を告げる記事だが、同じ時期、全国競輪施行者協議会(競輪の施行者の団体)は2回にわたって同会の会報に関連記事を掲載。洞爺丸のほかに4隻の船が沈没、全部で1734人の犠牲者が出たと伝えている。
 そのころ、日本を襲った台風は多く、洞爺丸台風の4年後(1958年)には伊豆半島の狩野川台風、翌1959年には伊勢湾台風など、猛烈な台風が次々に本土を襲い大きな被害をもたらした。自転車振興会連合会(旧日本自転車振興会はともにJKAの前身)も洞爺丸事故などを重視。1978(昭和53)年に出版した「競輪30年史」にも人命の尊さを訴えるとともに次のような記事を掲載して警告を与えている。
 「台風の被害を戦前と戦後に分けて比較すると、戦後の方がはるかに厳しい状況にある。その理由は、河川の堤防や橋梁の老朽化と、戦時中に森林を伐採し過ぎた弊害が一気に表面化したのではないか。残念な話だが、戦後の10数年間、日本はあまりにも雨が多すぎたのも一因だろう」と記している。こうした情勢判断をしたJKAは日本競輪選手会などと協力しながら、選手の健康はいうに及ばず、日本の再建、機械工業の振興、社会福祉の向上を目指して今日まで大切な役割を果たしてきたと思う。
 話が堅苦しくなったが、再び、上の写真を見ていただきたい。中央の写真は1955(昭和30)年5月11日、高松港の近くで起きた海難事故で救出にあたった香川県の選手と昨年5月に写した高松港(写真右)の風景だ。
 この事故は台風とは無関係だが、同日の朝、香川県の高松港と岡山県の宇野港を結ぶ宇高連絡船の「紫雲丸」と「第2宇高丸」が衝突。修学旅行を楽しみにして出かけた小・中学生を中心に113人が亡くなる大惨事になった。その惨事の中で、関西地区の競輪に出場するため同船に乗り合わせていた香川県出身の内田善康、大山一海、佐藤和幸、竹林優の4選手が39人を助け出したのだ。
 旧四国自転車競技会発行の「四国自転車競技会史」によると、濃霧のため視界が悪い状況の中で紫雲丸は宇野港に向けて出帆。約15分後、同船が女木島(めぎじま)という島の沖合に出た時に第2宇高丸と衝突して沈没。船内は大混乱に陥ったが、事故発生と同時に前述の4選手が自分たちに襲いかかる身の危険を顧みず溺れかかった子供や婦人ら39人を救出したという。
 当時、テレビはどのくらい普及していたのか知らないが、新聞はその善行を大々的に報道し、6月に日本自転車振興会(現JKA)が表彰。翌7月には後楽園競輪場(1973・昭和48年に廃止)で通商産業大臣、文部大臣、国鉄総裁(いずれも当時の役職名)から表彰され、NHKテレビも全国に向けて報道した。あれから約60年が過ぎたが、「四国自転車競技会史」に掲載された選手たち(中央の写真)の勇敢で沈着な行動は、厳しいレースで鍛えられた賜物として後世に語り継がれるだろう。
 ここまで筆を進めて堅苦しさは和らいだが、今度は下の2枚の写真を参考にして、もうひとつ、心の温まる話を紹介させていただこう。

 今はどのような制度になっているのか知らないが、新潟県の弥彦競輪は、新潟県をはじめ、弥彦村、新潟県4市町競輪事務組合などが主催していた。それらの主催者の中で私が驚いたのは、弥彦村立弥彦小学校が編集、同弥彦村教育委員会が発行した「わたしたちの弥彦村」(左の写真)という小学校3~4年生用の「副読本」に競輪の話が載っている。恐らく社会科の教材として使われたのだろうが、最初の発行は1976(昭和51)年で、私が手にしたのは1990(平成2)年に印刷された第6版だった。
 その本に「競輪のある村」(右の写真)という項目があり、一部を抜粋しながら原文を漢字に変更して紹介させていただきたいと思う。
 わたしたちの村には、新潟県でただ一つの競輪場があり、競輪のある日は朝から村は活気づきます。競輪に関係ある仕事は、三つの大きな駐車場にあふれるほどになる車の整理をする人、見張りをする人、競輪場の中で競走に関係ある役員の人たち、券を売る人たち、そして、食堂で働く人たちなど、約520人がいます。
 競輪が終わるのは午後4時ごろです。帰る人たちの車で、弥彦から吉田や岩室(近隣の村=筆者が加筆)までつながってしまうほど混雑します。場内ではお金の計算、翌日の準備など、まだたくさんの仕事が残っていて、遅く帰る人たちもいます。
 競輪は村がやっている仕事の一つです。競輪によって村には大きな収入が入ります。それらのお金は、道路を良くするために回したり、農業を盛んにするために回したり、下水道や学校の施設や設備を整えたりする費用にしたりして、豊かな村づくりに大変役立っています。
 以上が「わたしたちの弥彦村」に記載された文章だが、大人の目で読んだ場合の感想は別にして、これだけのことを子供に伝える弥彦村の勇気を称賛してこの副読本を紹介させていただいた。
 筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。