バンクのつぶやき



 「第65回高松宮記念杯競輪」の決勝戦は、去る6月15日、宇都宮競輪場で行われ、大阪の稲川翔(いなかわ・しょう=90期・29歳)が優勝。夢にまで見た檜舞台で数々の賞が授与されたが、その席で関係団体から「公益財団法人高松宮妃癌研究基金」へ目録が贈られたのが目にとまった。
 同研究基金のことは後述するが、優勝した稲川は大阪の選手としてビックレースの制覇は1969(昭和44)年に秩父宮妃賜杯競輪で優勝した中川茂一以来45年ぶり。また、高松宮記念杯に限っていえば、それより10年前の1959年(昭和34年)の山本清治の優勝から数えて55年ぶりの快挙でもあった。
 「宮杯」の愛称で全国のファンに親しまれるこのレース。今回はS級S班5名をはじめとするトップレーサーが自粛欠場という不測の事態に直面したが、高原永伍(神奈川)が大津びわこ競輪場で優勝した1969(昭和44)年以来、40年も取材してきた私にとって「宮杯」は競輪の原点のようなもの。とすれば、今回は「宮杯」がどのような経過を経て成長したのか説明させていただきたいと思う。
 今から約80年前、当時の村地信夫滋賀県知事が、天智天皇をお祭りする「近江神宮」を大津市内に建立しようと提案した。1938(昭和13)年のことだ。この話は明治時代にもあったそうだが、大津市会もこれに賛同。高松宮宣仁(のぶひと)親王殿下に「近江神宮奉讃会名誉総裁」の大役をお願いし、官民一体となって工事を進め1940年(昭和15)年に竣工した(左下は当時の写真=「大津の歴史」から)。
 ところが、その翌年に太平洋戦争が勃発。全国各地で都市が焼き尽くされ、挙句の果てに広島、長崎に投下された原子爆弾によって戦争は終結した。終戦当時の食糧不足や悲惨な暮らしを覚えている人はめっきり少なくなったが、そんな時代に地方財政を立て直して大衆に娯楽を与え、それによって国家の繁栄を目指した大勢の人たちが「競輪の創設」に力を注ぎ、終戦から3年後の1948(昭和23)年、小倉競輪の発足から爆発的に広がった。
 滋賀県、大津市の両自治体が競輪を模索し始めたころ、びわこ観光施設株式会社に関係する佐藤与吉(通称=幸治)という人が、翌1949年に「近江神宮外苑運動場」に競輪場の建設に着手。滋賀県と大津市があとを引き継いで1950(昭和25)年に完成。これを記念して高松宮殿下ご夫妻に優勝杯を下賜(かし=天皇や皇族方から賜ること)して下さることを懇願した。
 高松宮殿下は快く引き受けて下さったという。それは、大昔に「大化の改新」を断行し、第38代天皇に即位された天智天皇を深く尊敬されていた関係で「優勝杯を下賜」されたのではなかろうか。高松宮殿下ご夫妻(中央の写真)はそれから何回か大津びわこ競輪場にご臨席あそばしたとお聞きしたが、右端の写真は「高松宮杯の創設」にあたって高松宮殿下ご自身がデザインされた優勝杯で、今も大津市に保管されていると聞いている。
 こうした過程を経て1950(昭和25)年4月、滋賀県の主催で「第1回高松宮・同妃賜杯競輪」がスタートした。当時の開催日程は、前半3日間は男子が「高松宮杯」に参加して前述の山本清治が優勝。後半は女子の渋谷小夜子(神奈川)が「妃賜杯」を獲得。山本は翌年も優勝、渋谷は通算3連続優勝して競輪を盛り上げた。その後、滋賀県と大津市が1年ごとに主催(平成元年以降は大津市が単独開催)して大きな成果を残したが、1964年(昭和39)年に女子競輪が廃止。翌65年には名称も「高松宮賜杯競輪」に改称された。当時は車券の売上も急速に伸び、周辺の旅館、タクシー会社、土産店なども売り上げを伸ばし、観光地もかなり潤ったという。
 選手の活躍も光り、昭和から平成時代へ大スターが大津の500バンクに花を咲かせ、大勢のファンに感銘を与えたが、その選手たちを何枚かの写真で紹介させていただこう。
 左上は「宮杯」の初期。男子で中井光雄が3連覇、女子では田中和子が4連覇したころに近江神宮で撮影した記念写真。右端は同神宮の宮司。次いで中井と田中が並び、左端が先に紹介した同競輪場の創設に貢献した佐藤与吉という人。彼は後に旧近畿自転車競技会の要職に就いた。
中央は1992(平成4)年の「宮杯」の表彰式。優勝したのは滝澤正光。右が2着の中野浩一、左が3着の井上茂徳だが、この3大スターが決勝戦終了後の表彰台で顔を合わせたのは初めてだと思う。中野はこれを最後に引退したが、もし、ここで優勝すればグランドスラム達成という大一番だった。
 右端の写真は、寬仁親王殿下が1994(平成6)年に「宮杯」をご観戦になった後、貴賓席で優勝した神山雄一郎にお言葉を賜っているところ。この席では2年前(1992年)に引退した世界V10の中野浩一が説明役を仰せつかったが、貴重な写真は旧近畿自転車競技会の会報から拝借した。
 これまでに65回も開かれた「宮杯」だけに話題は尽きないが、1341勝をマークした松本勝明ら往年のスターによる「日本名輪会」所属のOBらは、毎年、この時期に大津びわこ競輪場で総会を開いて高松宮殿下の遺徳をしのび、競輪界の発展を願った(左下の写真)。同会は1995(平成7)年に設立。今では会員名の付いた「冠レース」が各地で行われているが、これからは非常に悲しい話をしなければならない。
 日本名輪会の写真は、高松宮殿下の遺影の前で撮影したものだが、大津にお越しになることを楽しみにしておられた高松宮殿下は1987(昭和62)年に薨去(こうきょ=ご逝去)された。競輪関係者は言うに及ばず大勢の国民が嘆き悲しんだが、その後、当時の稲葉稔滋賀県知事、山田豊三郎大津市長らが高松宮家に赴いて喜久子妃殿下に拝謁。今後のことをお願いした。
 妃殿下はその席で、「競輪が成し得る社会への貢献度」について質問され、「今後も社会に寄与するため、名称の使用を続けてもよろしいでしょう」というお言葉を頂戴して存続が確定。同年から東日本の特選競走に「青龍賞」、西日本の特選競走に「白虎賞」というタイトルレースが生まれた。
 「宮杯」はそれ以後も各式の高いレースとしてファンに親しまれたが、高松宮殿下を支え、「宮杯」の存続を認めていただいた喜久子妃殿下は2004(平成16)年に薨去された。大津市は妃殿下の偉業を称え直ちに貴賓席にある宮様の横に妃殿下の遺影を掲げて厚く霊を弔った。
 喜久子妃殿下の慈しみ深い話はよく聞かされてきたが、いろんな慈善事業の中で「癌(がん)の撲滅」にも力を注がれ、これが冒頭で説明した「公益財団法人高松宮妃癌研究基金」として現存。今回の「高松宮記念杯競輪」では同基金を支援するため、全国競輪施行者協議会武島理事長から同基金の佐藤進参事に目録が贈られた(右端の写真)。
 佐藤参事は、高松宮殿下ご夫妻がご存命のころから「宮務官」(きゅうむかん)として高松宮家に仕え、現在は妃殿下の遺志を継いで癌の撲滅に全力を注いでおられるそうだが、高松宮殿下に随行して何回も大津びわこ競輪場に足を運ばれたとか。とすれば、大津で開催されていたころの「宮杯」の逸話を聞かせていただく機会があるかもしれない。その時は必ず「続編」を書かせてもらうことを約束しておきたい。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 79歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。