バンクのつぶやき



 3,4年前から「GIレースでテレビ解説している中野浩一さんの現役時代のことを教えて」という問い合わせが増えた。その都度、私は「1975(昭和50)年にデビューした天才的な選手で、世界選手権スプリント競技では10連覇を達成。"世界のナカノ"という愛称でファンの皆さんに親しまれたOBです」と答えてきた(以下・敬称略)。
 10連覇の話はあまりにも有名だが、彼が引退したのは1992(平成4)年のことで、それから22年が過ぎた今、全国のファンを魅了した豪快なレースを知る人は少なくなった。そこで、今回は本棚からいろんな資料を探し出して「中野時代の思い出」を書かせてもらうことにした。
 1974(昭和49)年に福岡県立八女(やめ)工業高校を卒業した中野は、同年、35期生の1人として伊豆半島にある日本競輪学校に入学した。高校時代は陸上競技部で活躍。2年生の時には100メートル競走で11秒1をマークして福岡県大会で好記録を出したこともあったという。


 当時、中野は進学を目指していたそうだが、高卒直前に目標を変え、激しい練習と厳しい競走(レース)に明け暮れる父・中野光仁(みつひと)に続き「2世選手」として競輪に的を絞り、1カ月後に行われた35期生の試験に合格した。こんなに短期間で目標を達した選手は非常に少ないと思う。
 左上の写真(左から中野、松田隆文、井狩吉雄)は翌1975(昭和50)年の卒業記念で写したものだが、決勝戦は松田、中野、井狩の順で入線した。松田は日大出身。アマ時代には国体の1000メートルタイムトライアルで3年連続優勝し、競輪学校では1着124回(過去最高)をマークした。この記録は現在まで塗り替えられていないが、一方の中野は114回だった。しかしながら、この時点で中野は天才的な選手という折り紙がつけられた。
 卒業記念のころ、彼はテレビで感動的なレースを見た。千葉で行われた「第28回日本選手権」で、あと1周のホームから飛び出したダービー初出場の6番車・高橋健二(30期生)が堂々と逃げ切った場面だ。同レースには特別競輪の優勝経験者が5人もいて、学校時代には11勝しかしていなかった高橋にファンはどれほど期待したか知れないが、この優勝は30期代の選手として初の快挙であり、中野もこんな活躍をしたいと思ったそうだ。
 余談だが、健二の父・高橋義一(よしかず)も選手だった。ところが、1959(昭和34)年に39歳の若さで亡くなり、残された5人の子供は新聞配達をして母を助け、後に昭次(25期生)、健二、美行(33期生)の3兄弟がプロとして羽ばたき「さわやか健ちゃん」という愛称でファンに親しまれていった。中央の写真は高橋がダービーで優勝した年に行われた「福井・全プロ大会」で撮影したものだが、苦労に苦労を重ねた彼の母を挟んで右が健二、左が1期先輩の久保千代志で、今回、紹介している中野は高橋3兄弟らと親交を重ねて成長した。ついでながら、高橋は2003(平成15)年9月、大勢のファンに惜しまれながら引退した。
 話を元に戻して―。競輪学校を卒業した中野は地元久留米のデビュー戦を3連勝で飾り、続く熊本、立川も勝ち続け、同年(1975年)7月26日、小倉で10連勝を達成、A級4班に特進した。そのころの競輪はA級とB級の2層制で新人選手はこぞってA級特進を夢見て力走した。
 特進した中野は、8月に防府でA級初戦を 1 1 ①。2戦目の高松も 1 1 ①で優勝し、改めて中野の強さが話題になった。というのは、防府では初日は予選からの出走だったのに対し、高松では初日から「選抜戦」にシードされて戦った。つまり、いかに新人とはいえ、初日から選抜戦、あるいは特選レースから出走するべき選手だと、その力量が実証されたということだ。
 似たような事例が61期生の神山雄一郎にもあった。神山はデビュー当時「中野に匹敵するほどの逸材」といわれた選手だが、1989(平成元)年9月の京都向日町記念の初日、S級2班で特選レースにシードされた。残念ながら、この時は優勝を逸したが、中野と同様に神山の強さを全国のファンにアピールした競輪関係者の配慮だった。
 再び中野に戻るが、デビューした翌年(1976・昭和51年)は24回出走して12回優勝。その中には玉野で記念競輪を初制覇し、競輪祭の「新人王決勝戦」も優勝するほど成長した(右上の写真)。そればかりか、この年に初めて「世界選手権」(イタリア)の桧舞台に立ち、スクラッチ競技で4位になった。スクラッチという競技名は今ではスプリント競技と呼ばれているが、中野はここから「世界のナカノ」に向けて胸が張り裂けるような険しい坂道を駆け上って行った。


 同じころ、競輪界に大きな変化が見られた。関東、関西など地区的なことには関係なく中野が出場する競輪場には観客が増え、各地で車券の売上がアップし始めたのだ。日本経済が上昇中だったことも幸いしたが、競輪を知らない人たちも中野に関心を示して競輪場へ足を向けたのだった。
 当の中野は翌1977(昭和52)年のベネズエラ大会で優勝して日の丸を掲げ(写真左=日本選手権競選手会50年史から)、私が同行取材した1982(昭和57)年のイギリス大会では6回目の優勝を飾った(中央の写真)。なお、この年、日大の竹花敏監督に率いられた坂本勉や中武克雄(後日、共に57期生としてプロ入り)らも同国のアマチュア大会に出場した(写真右)。
 こうした慌ただしさの中で中野は前進。国内の競輪では昭和54年7月門司記念から昭和57年2月伊東記念まで62場所連続して決勝戦に進出するという大記録を達成するかたわら、41期生の井上茂徳、43期生の北村徹、佐々木昭彦、46期生の野田正らと手を携え、東日本の選手が勢力を誇った「東高西低」のムードを「西高東低」の流れに移行させることにも成功した。次回はそうした歴史と、現在、JKAの顧問として競輪界の重責を担う中野の近況をお伝えしたいと思う。

筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 79歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。