バンクのつぶやき



 前回は、1975(昭和50)年に中野浩一が35期生としてデビュー。あっという間に10連勝を達成し、当時の制度によってB級からA級に特進。以後も快進撃を続け「連続62場所決勝戦進出」という記録を樹立するかたわら、世界選手権のスプリント競技で連勝を続ける話を紹介した。そうした経緯を振り返りながら改めて当時の思い出にふけってみよう。
 中野は現在、競輪界の中核的な存在となる「JKA」の顧問や、日本自転車競技連盟副会長などの大役に就き、2020年の「東京五輪」を目指して頑張っているが、デビュー前から大きな期待が寄せられていた。彼はそれに応えてA級特進後も全力疾走。翌76(昭和51)年には1月の佐世保から3月の立川にかけて6場所連続優勝(総て1着で達成)を達成。あっという間にその実力と天才的な能力がファンを魅了した。
 初めて記念レース(別府)に参加したのは同年の5月だが決勝戦で惜しくも落車。それが翌6月の高松宮記念杯(当時の名称は高松宮杯)にも響いたのか、成績は3344着と未勝利に終わった。左上の写真はこの時の入場式で写したものだが、体は細く見えるし、初めてビッグレースに参加する緊張感がありありとうかがえる表情だった。
 しかし、檜舞台を経験した中野の以後の活躍が凄かった。宮杯が終わってから1カ月後に玉野で記念初優勝。同年11月には小倉で新人王決勝戦を制覇した(中央の写真=右から中野、36期生の菅田順和、35期生の松田隆文=同レースで撮影)。画面では小さくて分かりにくいが、落ち着いた表情や体格にも風格が出てきた中野の姿だ。さらに右端の写真は41期生の井上茂徳が宮杯に初出場した80(昭和55)年に撮ったものと記憶するが、このあたりから中野、井上の両雄をはじめ、43期生の佐々木昭彦、北村徹、46期生の野田正らを中心とする「九州王国」が確立していった。65期生の吉岡稔真が登場するよりかなり前のことである。
 こんな書き方をすると中野は総て順調に勝ち進んだように思われるが、特別競輪(GI)を獲るまでに3年5カ月かかった。なぜかというと、彼がデビューする前の昭和40年代は、高原永伍、稲村雅士、福島正幸、田中博、伊藤繁、阿部道、荒川秀之助、阿部良二(以下も期別は省略)ら東日本勢が圧倒的に強かったからだ。
 中野はこれらの「厚い壁」に敢然と立ち向かい、1978(昭和53)年に小倉競輪祭でGI初優勝。翌79年にはオールスターも手にして「我が世の春」を謳歌したのだった。ちなみに、現在では初出走からGI制覇までの最短期間は深谷知広の1年10カ月、吉岡稔真の1年11カ月が最高だが、昭和時代の後半は井上茂徳の3年4カ月、滝澤正光の4年11カ月、神山雄一郎の5年4カ月などがごく普通の数字だった。
 もう少し、初出走からGI初制覇までの年月を挙げると、高橋健二の2年5カ月は別格として、村上義弘は8年半、山田裕仁は10年4カ月、松本整は12年半を要し、内林久徳に至っては実に16年2カ月をかけて「感激の優勝」に落涙した。GIの優勝がいかに難しいものかという好例だ。
 これらの記録を見ると中野の強さはよく分かるが、前回、紹介したように79(昭和54)年7月の門司記念から82(昭和57)年2月の伊東記念にかけて「62場所連続決勝戦進出」や、「記念競輪の優勝116回」という前人未到の記録がある。
 中野に続く記念の優勝は、井上茂徳の110回、神山雄一郎の94回、滝澤正光の92回、吉岡稔真の75回、山田裕仁の57回が目につく。しかし、これらの数字は競輪を覚えるために私自身が書き残したメモであり、公式記録とは少し異なるかもしれないが、その時はお許し願いたい。
 中野はこうした記録を残しながら世界選手権でも勝ち続け、1986(昭和61)年8月、アメリカ・コロラド州で行われた大会で遂に「10連覇」を達成。「世界のナカノ」という愛称で世界にその名を轟かせた。
 それに先立つビッグニュースは2年前の84(昭和59)年10月30日、天皇陛下主催の「秋の園遊会」(左上の写真=東京赤坂御苑)に中野が招待されたことだった。彼は世界選手権で「V8」を達成した直後だったが、スポーツ界では元読売巨人軍の王貞治監督に次ぐ2人目の偉業で、競輪界は、天皇陛下のお言葉と写真を掲載して「空前絶後の名誉」と大々的に報じた。
 今回は関係団体から写真を拝借したが、その時、昭和天皇は中野の前に立ち止まられ「プロの競輪選手としてどうですか」とお言葉をかけられた。中野は直立不動の姿勢で「一生懸命に頑張っておりますけれど、最近はあまり良くないんです」と緊張のあまり震えるような声でお答えした。
 陛下は「あっ、そうですか。どうか元気でやってください」と再びお声をかけられたが、「競輪」という言葉をお遣いくださったことに競輪関係者は喜びを禁じえなかったという。それから2年後、前述のように中野は86年に「10連覇」を達成し、中曽根康弘総理から「総理大臣顕彰」を受賞した。
 レースに参加するたびに活躍し全国のファンを魅了した中野は「10連覇」から6年後の1992(平成4)年6月、17年間に及ぶ選手生活にピリオドを打って引退。長期にわたる緊張感から解放され、右上の写真のように記者室に入って来て笑顔を見せてくれるようになった。これが本当の中野の姿なのだろうが、「本当にご苦労さん」とねぎらうしか言葉がなかった。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 79歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。