バンクのつぶやき



2014年を飾る競輪界最大のイベント「KEIRINグランプリ(GP)」は、12月30日、西日本で初めての開催地となる岸和田競輪場で開かれ、熱戦の末、武田豊樹選手(茨城・40歳)が優勝。5年ぶりの出場で全国のファンに期待された神山雄一郎は惜しくも敗退した。
今回のグランプリは、早い段階で出場権を手にした村上義弘・博幸兄弟や地元大阪の稲川翔をはじめ、関東の武田豊樹、平原康多、神山雄一郎、さらには深谷知広、浅井康太、岩津裕介らによって争われた。これだけの逸材がそろえば想像を絶する白熱戦になることは容易に判断できたが、その中でひときわ注目を浴びたのは神山ではなかっただろうか。
彼が初めてグランプリに出場したのは1991(平成3)年で23歳の時だった。それから23年の歳月が流れ、その間、4年連続2着という悔しさも体験したが、46歳になって15回目の晴れ舞台に立つことができ、その感激をどのような形で全国のファンを感動させてくれるのだろう。そんなことを考えながらグランプリを観戦したが、今回はそうしたことを振り返りつつ日本競輪学校に入学したころからの神山を追ってみよう。
神山は1988(昭和63)年5月に61期生として花月園でデビューした。彼は競輪学校在学中の練習試合で歴代3位の110勝を記録、卒業記念レースも制覇して「大器」の片鱗をのぞかせた。左上の写真(中央)は卒業記念で写したものだが、あれから20数年を経た現在もこの笑顔に変わりはない。それが全国のファンを魅了し、親しまれるゆえんなのだろう。
そのころ、競輪はS級制度になっていたが、神山のデビュー当時はB級のレースもあり、彼はB級戦で6回、A級戦で14回優勝してS級に昇級した。1989(平成元年)4月のことで、中野浩一、井上茂徳、滝澤正光、山口健治、尾崎雅彦、菅田順和らが活躍していたころの成績だ。
このあたりから「神山ファン」が一気に増えたのだが、彼の存在をいち早く見抜いたのは「人間コンピューター」といわれた福島正幸の師匠・鈴木保巳(1期生)だった。鈴木は1986(昭和61)年の山梨国体で少年男子の1000メートルタイムトライアルに出場した作新学院高の神山が、過去最高の1分7秒台で優勝したのを知って驚いた。競輪ファンなら30年も前に神山少年が出したこのタイムがどれだけ凄いか理解してもらえるはずだ。
苦難の道を歩き始めた神山
S級に昇級した神山は3場所目の平成元年5月、別府で記念競輪を初制覇。その後、松阪、いわき平、岐阜記念でも優勝し、その間には競輪祭の新人王決勝戦も手にした。こうなれば特別競輪(GI)も時間の問題と思われたが、大きな試練が待ち受けていた。それは、新人王に輝いた翌平成2年の3月、初めてGIレース(平塚ダービー)に出場した時のことだった。
神山は順調に勝ち上がって決勝戦に進み、あと1周のホームで主導権を取った時、少しペースを落とした。俗にいう「流し気味の走法」である。それを察知した坂本勉が強烈な捲りで迫り、坂本をマークした俵信之が初のビッグタイトルに輝き、神山は4着に退いた。この敗退が響いたのか、この年は4月の四日市と、12月のいわき平の両記念で優勝したのみだった。
それから2年後の平成4年。久留米、奈良、伊東記念や高松宮杯などで滝澤に負け、秋から年末にかけては甲子園記念、ふるさとダービー別府、グランプリなどで2年後輩の吉岡稔真に苦杯を喫した。
だが、神山はこれに屈せず、翌平成5年2月、奈良記念初日の特選で滝澤に初めて土を付け、同年9月、地元の宇都宮オールスター競輪で遂にGIを制覇した。デビューしてから約5年半。大器といわれた神山が檜舞台に登場する時が訪れたのだった。
ここで再び写真説明に移るが、右端は大阪の「KKダービー社」が撮影したもので、2着の高木隆弘、3着の松本整とともに表彰台の中央で神山が微笑んでいる。だが、私が写した当日のインタビュー写真(中央)では、喜びに震え、涙は音を立ててバンクに落ちたと思うほど泣き続け、男の涙がこんなにも美しいものかと思ったのを昨日のことのように覚えている。
この優勝を境にして「神山時代」が到来。平成9年には競輪界で初めて年間賞金獲得額を2億円台に乗せ、井上茂徳、滝澤正光に次いで3人目のグランドスラマー(GIを総て制覇)になり、GIの優勝も16回という最高記録を樹立した。となれば、残るのは「グランプリの優勝」だけ。その結果がどうなるか、その時点では分かるはずもないが、12月16日に広島記念で46歳8カ月という最高齢の優勝レーサーとなった時の調子を持続すれば絶好のチャンス到来とも思えたのだがー。
最後に余談をつけ加えて終わらせていただこう。それは、神山が記念レースを初制覇した平成元年5月のことだが、家族の談話を記事にしたいと思って栃木の自宅に電話した。応対してもらったのはお母さんだったが、「雄一郎は2番の自転車に乗って優勝したのですか。あの子は黒い色が好きなので」といいながら、すすり泣く声が受話器の向こうから聞こえてきた。彼の自宅に電話したのはこの1回きりだが、選手たちの家族は、みんな同じような気持でレースを見守っているのだと思ったものだった。(敬称略)
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。