バンクのつぶやき


競輪担当として現役で働いていたころ、喜んで書きたくなる原稿と、そうでないことを書かざるを得ない時があった。前者は誰それが優勝したとか、日本競輪学校を卒業する新人たちの笑顔など心が温まる話題。これに対して後者は悲しいことを書く必要に迫られた時の戸惑いが忘れられない。そんなことを思い出しつつ今回は「故人」にまつわることを紹介させていただこう。
話の発端は昨年の5月、昭和20年代の半ばから30年代の後半にかけて活躍した「元女子競輪」の松下五月OBからの電話だった。彼女は今、日本競輪選手会・兵庫支部OB同好会の幹事をされているが、電話は「田中和子さんが亡くなったのをご存じ?」という知らせだった。このあと、半世紀前の選手を何人も紹介するため敬称は省略するが、昔の女子競輪は、私が競輪の仕事に就く前の年(1964・昭和39年)に廃止され、実際に自分の目でレースを見たことはなかった。
しかし、現役時代の田中は「高松宮妃賜杯競輪」を4連覇するなど有名な選手だったので古い記録を参考にして何回も記事にし、当時の写真を借りに西宮市内の自宅へお邪魔したこともあった。その田中が昨年の4月26日に亡くなり、葬儀は家族のみで執り行われたという。それからしばらくして東京の山田克巳・菊江夫妻(共に元選手)と子息の山田克彦(48期生=引退)から連絡があり、同年10月、山田夫妻の口添えで田中家を訪問。ご主人の高橋恒(ひさし・元選手)にお会いしてお悔やみを申し上げた。
JKAの30年史に記載された名簿で計算すると、享年は82歳だと思うが、その時、ご主人から「遺品を差し上げる」と言って頂戴したのが左下の「登録選手手帳」と4枚の写真だった。ここでは高松宮妃賜杯に係る写真を2枚掲載して順次説明するが、手帳は1951、52(昭和26、27)年のもので、出走した競輪場、競走種目、着順、賞金額、記録更新時の褒賞金などが克明に記載された貴重なものだ。
このあたりで、女子競輪と、田中夫妻、松下幹事、山田夫妻について紹介させていただこう。1949(昭和24)年6月、金銭をかけた女子競輪が西宮で初めて行われた。小倉で競輪が誕生してから7カ月後のことだが、この話を耳にした松下は、近くに住む仲良しの田中に「和子ちゃん、女の子の競輪が始まったそうよ。一緒に走ってみない?」と誘いかけたという。
興味を抱いた家族が知人に相談したところ次の「選手募集」は奈良だと分かり、2人は奈良で受験して合格。兵庫に籍を置いたまま「奈良の選手」になった(中央の写真、左=松下、右=田中)。当時はこうしたことも許され、日本名輪会会員の石田雄彦も大阪から和歌山で受験。後に大阪へ登録変更するまで「和歌山のスター」として和歌山記念だけで8回も優勝している。
松下と田中は1950(昭和25)年9月に取手でデビューし、田中は1落③着、松下は221着になった。2日目に落車した田中が決勝戦に進出。初日2着、2日目も2着の松下が決勝進出を逸したのは不思議だが、前年(昭和24年)4月の第1回川崎競輪(7日制)ではわずか3人で走ったレースもあり、創成期には松下や田中のような例もあったのではなかろうか。
それはともかく、若い2人がデビューしたころ、女子では西村喜代香、高木ミナエ、渋谷小夜子らが有名だったそうだが、田中の1951(昭和26)年の選手手帳を見ると、1場所(3日間)ごとに3万円とか5万円といった賞金を手にしていたことが記録されている。当時と現在の貨幣価値には差があるが、いかに大きな収入だったかがよく分かる。
一方、同じ昭和26年の秋、大阪の中央競輪で行なわれた男子のダービー決勝戦で1着入線の高橋恒が失格。ダービー史上最年少(18歳)の高倉登が繰り上がって優勝した(右上の写真=KKダービー社提供)。私の複製技術が未熟で分かりにくい画面になったが、レースは1万メートルという長距離競走の最終4コーナー付近で落車事故が発生して高橋が失格になった。なぜ、高橋を取り上げたかといえば、この人が田中和子の主人であり、彼女の大切な遺品を後世に遺(のこ)すため私に託して下さった人なのだ。
高橋と田中がいつ結婚したのかしらないが、2人はそのまま高橋、田中の名で競走に参加し、田中は好調を持続。1954~57(昭和29~32)年にかけて「高松宮妃賜杯」を4連覇する偉業を達成した。左上の写真は、今は亡き高松宮様から「妃賜杯」を受賞する田中。続いて中央の写真は田中と同じ時期に「高松宮杯」を3連覇した中井光雄との記念写真で、絶頂期にあった彼女の喜びが伝わってくる。
話は変わるが、高橋・田中夫妻と、山田克巳・菊江夫妻は早くから親交があり、大阪万博が開かれた1970(昭和45)には山田夫妻が3人の子供を連れて高橋家に泊り、同家から万博見物に出かけたそうだ。その中の1人が後日、48期生としてプロ入りした克彦だが、この原稿を書いている最中に夢物語のような話を耳にした。というのは、高橋が失格したことでダービーの栄冠を獲得した高倉登と、山田の妻・菊江は同じ小学校の卒業生だとのこと。人の世の不思議さをしみじみと痛感したものだった。
最後に紹介するのは松下幹事から頂戴した右上の写真。これは、平成17年の秋、元女子選手による親睦会(競老会)のメンバー約50人が大坂城を背にして写したとのことだが、今年の6月には神戸の有馬温泉で旧交を温め、48年ぶり(平成24年7月)に復活した「ガールズケイリン」の繁栄を願う催しにしたいとのこと。これも大きなニュースになりそうだ。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 78歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。