バンクのつぶやき



 大阪府と奈良県の境に「生駒山」という標高約600mの山がある。現在では高速道路などで簡単に往来できるが、昔はこの山にある「暗峠」(くらがりとうげ)という急坂を上り下りして大阪と奈良を行き来したそうだ。
 今年は「敗戦から70年」にあたり、連日、戦争関係の報道が続いたが、私は国民学校(今の小学校)3年生の時、大阪から20kmほど離れたこの峠の中腹にある「勧成院」(かんじょういん)という寺に集団疎開。1945(昭和20)年3月13日の夜、大阪大空襲で生まれ故郷が焼けるのを目の当たりにし、疎開児童全員が家族の安否を気遣って号泣した記憶がある。
 左下の写真は今年の8月15日、70年ぶりに同寺の境内から大阪市内の高層ビルや、遠くに霞む神戸市の「六甲山」を写した風景だが、空襲の翌日、同じ場所から見えた建物は大坂城と近くの百貨店だけ。あとは総て黒っぽくなっていた。私はその2年前(1943=昭和18年)、大阪の名所「新世界の通天閣」が火事で焼けるのもこの目で見たが、子供のころに体験した戦争の恐怖と戦後の惨めな暮らしを考えると今でも鳥肌が立つ思いがする。
 敗戦と競輪。それがどんな形で結びついたのか、何も分からぬまま成人して新聞社に就職。1965(昭和40)年に競輪の仕事に就いたあたりから競輪の凄さを感じるようになった。敗戦から3年後の1948(昭和23)年に小倉で競輪が生まれ、最終的には63カ所に競輪場があった。その間、いや、その後もギャンブルに対する批判はあったが、競輪から上がる収益が日本の再建に少なからず貢献したことは歴史的な事実だ。
 それにつれて選手賞金も増え、1955(昭和30)年度は松本勝明選手の380万円を筆頭に男子では200万円以上が22人。女子では田中和子選手の158万円をはじめ100万円台が5人。さらに1963(昭和38)年度には13期生の高原永伍選手が1000万円を超えた。現在の金額との比較は難しいが高収入に憧れて選手志望者も増加の一途をたどった。
 そんな古い記録を調べながら、1970(昭和45)年ごろから私も◎や○印を付けて予想記事を書き、選手たちが「高齢者施設」などを訪問してテレビや生活用品をプレゼントする様子(中央の写真)なども取材した。
 同じころ、栃木県の福田仲久選手(前期生)が兵庫県選手会員と県内の施設を訪問したのに同行した。彼は選手会の役員で、訪問を終えた後、「栃木はもっと社会福祉に協力しなければ」と感動しながら、「ここには戦争未亡人や子供を戦争で失った人も多いだろう」と寂しげに語った。その後、栃木県の支援活動も活発になったと聞いたが、それから約20年後、同県北部の那須高原に誰かが寄贈した「愛の鐘」があるという噂を耳にした。
 噂とは、敗戦から数年後、那須高原にある戦災孤児の施設の前を、毎日、決まった時刻に群馬県の栗原健二選手(4期生)が自転車で練習。子供たちが一斉に声援を送ったそうだ。それが何年続いたのか、同選手は後日、子供たちに「釣り鐘」を贈ったという。さらに取材を進めると、栗原選手と同県の新井市太郎選手(11期生)は親類だということも分かった。
 新井選手は、福島正幸、田中博、稲村雅士、木村実成選手らと共に「群馬王国」を築いた一員だが、「鐘の話は聞いたけど場所は不明」とのことだった。従って、鐘の件は忘れていたが、何年か前にNHKテレビが放映したという。とすれば、子供らの声援に感謝して栗原選手は誰にも告げず「鐘」を寄贈し、戦争で肉親を失った孤児たちの心をいやしたのだろうか。ファンの皆さんの目には届かないが、日本競輪選手会発行の「プロサイクリスト」という会報には、毎月、このような明るい話題が掲載されている。
 さて、今回は敗戦の話から始めたが、私は早くから競輪創設時のことや戦争体験選手のことを知りたかった。しかし、1970年代は選手に対する取材は厳しく「戦争で亡くなられた親族は?」という質問などできる雰囲気ではなかった。ところが、信じられないような幸運が巡ってきた。今は亡き勝見節男選手(兵庫・前期生)を通じて、第1回小倉競輪に参加した鍋谷正選手(兵庫・右上の写真)の資料を頂くことができたのだ。
 その時、すでに鍋谷選手は現役を退いておられたが、まず、履歴書を見ると、戦争中から国内、国外(現在の中国)で開かれた自転車競技大会などでいくつもの種目を制覇。その後は海軍の軍人として潜水艦に搭乗し、戦後は前述のように第1回小倉競輪に参加。初期の日本選手権(ダービー)でも優出するなど大きな足跡を残した人でもある。
 それらの資料はあちこちで紹介してきたが、鍋谷選手は「戦時中、自転車は日本の輸出産業の花形だった。その実績を受け継ぎ、新しく生まれた競輪の歴史を後世に残してくれ」と勝見選手に伝えていたという。そこで2枚の写真説明に移るが、左の写真の発行日は1948(昭和23)年7月1日。つまり、「競輪の実施OK」という「自転車競技法」が衆参両院を通過したことを報じた競輪創設直前のミニチュア新聞の題字である。
 もちろん、一般紙も報道しただろうが、自転車愛好者に読んでもらう新聞が当時から存在していたことに注目したい。そして、右側の「九州競輪新聞」は、小倉競輪がスタートした翌1949年3月1日付で発行した創刊号の「大きな見出し」で、女流選手も交え200名が参加すると伝えている。
 現在では、パソコンなどで競輪界の情報を伝達するのは簡単になったが、競輪創設時の人々の努力と苦労がなかったら競輪はここまで成長しなかったのではなかろうか。競輪界はあと3年で「発祥70年」を迎えるが、創設当時の人々の素晴らしい意気込みを私たち後輩は末永く受け継いでいきたいものである。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 79歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。