インタビュー

 中野浩一が好きだった。
 バンクの中野へ執拗な野次を浴びせ続ける男と諍ったのは三十五年以上も前の小田原競輪場だ。俺にも純な時代があったのだ。競輪場と歌舞伎町は恐い場所だから絶対に揉めるな。遊びの師匠である先輩の忠告を只一度破った日でもあった。
 井上茂徳と阿部文雄が競ったのはいつの弥彦記念だったろう。爆撃機と化した井上が阿部にドンとぶち当たったのだと俺は誰彼に吹聴するが、記憶は長年月のうちにかなり誇張されているかもしれない。
 1985年の清嶋彰一が優勝した立川ダービーには六日間通った。決勝の日は早朝からの長蛇の列に特別観覧席の開門が早まり、午前七時には室内に居たのじゃなかったか。まあ第一競走までの長かったこと。俺の前の席の男は表に散髪に出掛けたっけ。八時を過ぎたありたから二台ある赤電話に列が出来、その大半は欠勤を詫びる会社への電話だった。そんな必要もない二十七歳の風来坊の俺は、ちょいと焦ったものだ。
 同年十二月に第一回グランプリが実施される。立川駅からのいつもの道にはざわざわと人が溢れていた。競輪場の正門を入るととぐろを巻いたような列が何本もあった。〈前売車券〉を求める客・客・客。制服の警備員が拡声器でがなるように誘導していた。冬空の下、やっとこさ中野浩一と井上茂徳の枠単を買えた俺だが、あまりの混雑にナマで観るのは諦め、自宅でのテレビ観戦で済ませてしまう。後年、グランプリ発祥の現場に居ながら立ち去った愚行を、俺は大きく悔いることとなる。地元の清嶋彰一、尾崎雅彦、山口健治が人気だったし、別線コメントだった中野と井上の車券は千七百円もついた。
 坂本勉と佐藤正人の長い写真判定に痺れたのは何年の川崎競輪場だろう。坂本がS級に特進して数場所目のはずだから1986年なのか。停電で発走が延び延びになり騒然とした川崎にも俺は居た。結局最終競走は未実施となったのだっけ。公衆電話から歓楽街の堀之内に予約を入れる男に出くわしたのはその騒ぎの最中だったと思うのだが、記憶は怪しい。
 立川競輪場の第二センターのコンクリートにちょんぼり座ってよく過ごした。レースがはじまると金網まで出張って観戦する。◎名取勝政の番手が大競りとなり、〈山梨-山梨〉を護れなかった○中澤俊治はうなだれて見えた。眼前を通過する奴にむかって俺は「ナカザワ~、練習してまた立川に来いよ!」と声を掛けた。すると中澤は尻を浮かして立ちこぎ気味の姿勢を取り、頸を一二度頷かせ俺に応えてくれたのだ。この日の〈交歓〉を拙い文章にし、履歴書同封で某専門紙に郵送したのが二十八年前。俺は今もしぶとくこの業界で禄を食んでいる。
 「S級デビュー二戦目の立川で準決落車しちゃって。担架で運ばれる時に、イノマタまた戻って来いよってファンの皆様の声が聞こえたので、優勝してお礼を言いたいと思って頑張りました」。2013年ヤンググランプリの表彰式での猪俣康一は素敵だった。彼にもここ立川で琴線に触れる「交歓」があったのだ。すっかり皮肉屋のベテランと化した俺を、一瞬でも初心に戻してくれた彼の真摯な言葉に感謝したい。
 すべてはあの日の立川からはじまったのだから。