バンクのつぶやき



 競輪JPの月刊競輪の欄に「バンクのつぶやき」を、そして、電話投票会員の家庭へ郵送される雑誌には「ケイリン今昔物語」という記事を書かせてもらってから2年ほどの月日が過ぎた。その間、何人もの人から「どうして、あんなに古い資料や写真を持っているの?」と訊ねられ、その都度、「想像もしない偶然と幸運がもたらしてくれたのです」と答えてきた。
 最初の偶然は、55歳で新聞社を退職した1991(平成3)年に訪れた。退職して3日後、所用で会社に行った時、1970(昭和45)年ごろから20余年にわたって私が撮っていた写真(フィルム)とスクラップブックに「廃棄処分」と書いた紙が貼り付けてあった。当時、写真が必要な場合は本職の写真部員が写してくれたので残す必要がなかったのだろうが、捨てるのならといって頂いて帰った。もし、あの日、会社へ行かなければ約2000人の選手の写真はゴミと化していたはずだ。
 下の写真はその一部で、左は1970(昭和45)年の大津びわこの高松宮杯、中央は74(昭和49)年の西武園ダービーで写したもの。画面が小さくて申し訳ないが、高松宮杯(多分、初日だと思う)では、一つのレースが終わり、次のレースに出走する選手紹介(顔見せ)を終えた後、1番車の選手から順にイスに座ってもらって写した貴重なもの。
 こんな撮影は前代未聞の出来事と笑われたが、ちなみに、写真の下2段は7Rに出走した吉田清治、山口国男、河内剛、石村正利、小林政春、昌山勝利、丸山和男、深田太一、中川茂一の9選手。また、中央の西武園ダービーは、レースの合い間に写した選手の表情と、右側は優勝した田中博、2着の福島正幸、3着の平林己佐男選手の表彰式で、オールドファンには懐かしい名前だと思って掲載させてもらった。そして、これらの資料を入手したことで退職してから現在まで競輪の歴史に本格的に取り組むことができた。
 それを長期にわたって「月刊競輪」(以前は雑誌として発行)などに書かせてもらい、撮影に協力してくれた人の中に日本競輪選手会の片折行(かたおり・あきら)理事長もいた。右上の写真は1984(昭和59)年に選手会総会で同理事長が就任のあいさつ(同会の会報から)をしているところだが、この人の逸話もいつか紹介させてもらいたいと思う。
 最後に信じられないような偶然をお伝えしたい。それは今年の初夏の話で、兵庫県姫路市の柳澤暢秀(のぶひで)という人に2001(平成13)年に「我が家のこと」を書いた新聞の切り抜きをもらった。同氏は30年来の知人だが、私はその記事を残しておらず、内容は次のようなものだった。
 この年、家内に肺がんの疑いが出た。入院すれば重度障害者の次男(長男は死去)は収容施設に預け、親子3人は別々に暮らし、最悪の場合、家内は死に至る。身も心も凍る思いがしたが、再診検査の前、これが最後になるかも知れないという気持ちで親子3人が北海道へ旅立った。
 次男は2歳の時に自閉症と診断され、38歳になるのに言葉は一言も出ず、交通信号の青と赤の判断がつかないばかりか、ちょっと油断するとどこでも大便をするという悪癖もある。私が55歳で退職したのも、この子の病状を案じたからだが、北海道からの帰路、飛行機の客室乗務員から「往きも帰りもお会いしましたね」と声を掛けられ非常に親切にしてもらった。
 家内は乗務員の優しさに泣き、私は航空会社の「社名」を入れ、「今の競輪界に琴線(きんせん)に触れるような良さがあるのだろうか」と書き、「心のなごむ競輪場にしようではないか」と付け加えた。幸いにして家内は助かったが、記事を読んだ前述の柳澤氏は、群馬県の高崎で暮らす娘さんに新聞のコピーを送った。というのは、その娘さんが「昔、同じ航空会社に勤めていたから」だという。
 それを見た彼女は、群馬県の「上毛(じょうもう)新聞」に30回も掲載された記事を父親に郵送。それが我が家に送られてきた(左上の写真)。パソコンで調べると、同紙は県内の4割以上の家庭で読まれているそうだが、この欄では「上州の著名人」が紹介され、今回は競輪界で一時代を築いた福島正幸選手(22期生)と、師匠であり評論家として知られた鈴木保巳氏(1期生)が取り上げられ、当時の勢力分布図が赤裸々に綴られている。
 最初の記事は、競輪が始まった1948(昭和23)年に群馬県前橋市で福島選手(2番目の写真)が生まれ、前橋商高を中退した後、鈴木師匠(3番目の写真)に鍛えられて66(昭和41)年にプロ入り。翌年には史上最年少の19歳で競輪祭の新人王に輝き、田中博(21期生)、阿部道(23期生)と共に3強時代を築くまでの概略を記載。残りの29回は同選手の記録を紹介しながら立派な家(右端の写真)を建て「企業家」として成功した過程が詳しく紹介されている。
 ここに掲載した福島選手の写真には赤い線が混じってしまったが、レースの前日(前検日)には常に笑顔を見せ、特別競輪で7回優勝したのをはじめ、甲子園(後に廃止)を除く総ての競輪場で優勝した実績もある。では、なぜ、甲子園で勝てなかったのか。次回はそのあたりを説明しながら彼の壮烈な現役時代と、企業家になるまでの経緯を書かせていただこう。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 80歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。