前回は、重度障害の子供を連れて私たち家族3人が北海道へ旅行。行きも帰りも客室乗務員に親切にされ、それを新聞で紹介したところ、後日、同じ航空会社の人から福島正幸OB(22期生)のことを詳しく書いた群馬県の「上毛(じょうもう)新聞」を送ってもらったことをお伝えした。
従って、今回は平成17年に30回にわたってその新聞に掲載された記事を読みながら、各選手の敬称を省略し、福島が活躍した半世紀前の競輪界と、引退後の人生について「つぶやくこと」にさせてもらいたい。
福島は1948(昭和23)年に生まれ、同じ年に小倉競輪が誕生した。従って競輪の歴史と彼の人生が歩調を合わせているような感じだが、今年の11月20日の早朝、NHKラジオが「今日は何の日」という番組で「67年前に競輪が始まった日であること」を紹介。同時に初日の売上額まで放送していた。2020年に日本で開かれるオリンピックのことは連日のように報道されているが、オリンピックの2年前に訪れる「競輪創設70周年」ではどんな催しが計画されているのだろうか。早く知りたいものである。
それはともかく、師匠の鈴木保己(1期生=左上の写真)の厳しい指導を受けた福島は、前橋商高を中退してプロを目指し、1966(昭和41)年に139人の22期生が京王閣で戦った卒業記念で優勝。翌67年の競輪祭新人王戦も制覇(中央の写真)して一躍有名になった。19歳の時のことだ。
「新人王戦」といえば小倉競輪でというのが常識だが、第1回は64(昭和39)年に高知で15~16期生らが対戦して木村実成(右上の写真)、稲村雅士が1、2着。翌65年の久留米では17~18期生が戦い松本秀房、須田幸雄の順で入線。さらに66年の静岡は19~21期生らが優勝争いを演じ、人気の伊藤繁は1着失格、吉川多喜夫は落車して佐藤勝彦と佐藤敏男が上位で入線。当時の新人王戦はこの段階で終了した。
これらは記録には残っておらず、公式記録ではそれ以前の63(昭和38)年から小倉で始まって高原永伍が「新しい新人王」になり、以下、木村実成、野寺英男、松本秀房、福島正幸の順で優勝し現在も続いている。
古い話をしているうちに「上毛新聞」の説明が遅れたが、幼いころの福島は両親が心配するほど物静かな子だった。ところが、中学で柔道部に入ったころから「福島を怒らせると怖いぞ」といわれ、卒業後、東京で就職。「一度は講道館で」と思ったそうだが、翌年、故郷に帰って前橋商高に入学。しばらくして叔父の勧めで鈴木保己に弟子入りした。
鈴木は前橋高校で野球部の主将として甲子園に出場。卒業後、大学に入り、そのあと競輪選手になって堅実に戦うかたわら後進の指導にも情熱を注いでいた。そこへ高校を中退した福島が入門、プロを目指すことになった。
群馬勢は10期代の新井市太郎、木村実成、稲村雅士、町田克己らが頭角を現わしたころから注目を浴び、福島が競輪学校を卒業した66(昭和41)年に鈴木道場の先輩・木村実成が群馬県で初めて特別競輪(オールスター)を獲得。
河内剛、佐藤勝彦選手が入線した。つまり、「学校で好成績を残さなければ実戦では苦しい」というのが師匠の信念で、福島はその信念を貫いた。
ちなみに、22期生は3カ月間の学校生活だったが、福島は在学中に75戦して73勝、3着1回、5着1回の成績を記録。実戦でも小倉で新人王になった翌68(昭和43)年1月、立川記念で平間誠記、高原永伍らの強豪を破って優勝(賞金50万円)。副賞のトヨペットを師匠にプレゼントするほど強くなっていた。そのころ、師匠は現役を退いて評論家として活躍しながら弟子を指導していたが、それから10年後の昭和53年、福島は上昇著しい35期生の中野浩一と西宮記念で劇的な対決をするなど、数々の話題を残し、特別競輪を7回優勝して82(昭和57)年の競輪祭の開催中に劇的な引退をした。
福島はその後、事業化として成功したが、その話は後日にゆずり競輪学校時代の同期生のたくましい写真(左から福島、藤巻昇、服部記義、住友義博の順)を並べ、その中から四国で有名になった徳島県の住友義博を紹介。再びNHKテレビのことなどをしたためて締めくくらせていただこう。
住友を取り上げたのは、入学前、朝日マラソンをはじめ数々のマラソン大会に出場した異色選手で、36歳のころには過去最高の「5・16の大ギア」を使い、競技関係者から使用を禁止されたという。現在のギアとは大変な違いである。その住友は今、徳島県阿南市で水産加工品を販売するかたわら、近くの那珂川町江野島という所で「菖蒲園」の育成に力を注ぎ、毎年、6月初旬には大勢の見物客でにぎわうそうだ。
さて、去る11月10日ごろ、NHKテレビは午後7時のニュース番組で 公益財団法人・日本サイクリング協会の長澤恵一専務理事を紹介。昨今のサイクリングブームについて質問した。同専務は昔、日本競輪学校の教官として山口健治、吉井秀仁、尾崎雅彦、清嶋彰一、井上茂徳、滝澤正光、佐々木昭彦ら38~44期生を育成。現在はサイクリングの発展に力を尽くし、日本と韓国、台湾など近隣諸国はもとより、世界の国々をサイクリングで結ぶ計画に奔走しているとか。
その放送の前後、またしてもNHKテレビは「ひるブラ」の番組で日本競輪選学校を放映。滝澤正光校長に質問しながら、険しい坂道で練習する生徒やガールズケイリンを取り上げていた。その中でも傑作だったのは、大きなどんぶり鉢に山盛りになったご飯を目の前にした生徒たちの嬉しそうな目。こうした映像を見るたびに競輪の発展を願うファンは増えると思う。
最後は悲しい話になるが、昭和23年の第1回小倉競輪の第1レースで1着になった大阪の芥禎男さん(当時の記録には貞男と記載)が11月19日、現住所の奈良で亡くなった。享年85歳。この方には大阪選手会のOB会などで当時の話を随分聞かせてもらったが、歴史的な選手の1人としてここに記載し謹んでご冥福を祈りたい。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 80歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。