バンクのつぶやき



 群馬県で発行されている「上毛(じょうもう)新聞」に、競輪界の貴公子といわれた福島正幸OB(22期生)に係わる読み物が2005(平成17)年の秋、30回にわたって掲載された。主な内容はすでに紹介したが、それと並行しながら別な話を追加させていただきたい(以下は敬称略)。
 福島には鈴木保巳という師匠がいた。鈴木は前橋高校時代の1948(昭和23)年、野球部の主将として夏の甲子園大会に出場した。小倉競輪の創設と同じ年のことだが、翌49年に日大へ入学したあと、競輪へ転向。1951(昭和26)年に日本プロサイクリストセンター(現在の日本競輪学校)の1期生としてプロ入りした。当時は選手賞金が高く約1万2000人も応募したそうだが合格者は135人。小倉競輪の誕生から3年後のことだった。
 同校の初代の市岡忠男校長は早稲田大学の主将から監督を経て、1936(昭和11)年に創設された日本職業野球連盟の初代理事長、東京巨人軍初代代表などを歴任した著名人で、生徒に対する指導(左下の写真)は非常に厳しかったという。競輪学校を卒業した1期生のデビューは同年9月、京王閣で行われた新人戦で、鈴木は532着だったことが記録に残っている。
 現役時代、鈴木は大記録を残すこともなく1966(昭和41)年に引退したが、福島正幸(中央の写真)という最高の弟子をはじめ、100人前後のプロやアマチュアを育てるかたわら、評論家として「日刊スポーツ」紙に斬新的な原稿を掲載。さらに、競輪のテレビ放映開始後は特別競輪の解説などを引き受けるなど大きな足跡を残して注目された。
 もう一つ特筆したいのは、競輪界の中心的な役割を果たす日本自転車振興会(現在のJKA)の首脳から、「フランスにはオムニパレスという有名な屋内競技場がある」と聞かされたことだ。同競技場は水と緑を標榜するフランスのセーヌ河畔にあり、「それなら、前橋市も緑に覆われ、利根川という清流もある」と鈴木は言い、当時の藤井精一市長にドームの建設を進言した。
 そのころ、ドーム競輪場などは夢物語りだったが、前橋市には以前から同市を「コンベンション都市にしたい」という話があったようだ。コンベンション思想とは、物、知識、情報を媒介として大規模な見本市や世界的な会議も開けるような都市にという願望である。その夢のような願いが1988(昭和63)年に市議会で討議され、2年後の平成2年に「グリーンドーム前橋」が完成。同年8月に「世界選手権自転車競技大会」が同所で盛大に開かれた。鈴木にとっては生涯で最高の喜びになったことだろう。
 あれから20数年が過ぎたが、その間、平成20年2月9日に鈴木は76歳で病死(右上の写真と記事)。告別式には約700人が参列して霊を弔い、遺体を乗せた霊柩車はドームを2周して最後の別れを告げた。
 鈴木師匠が元気だったころから、競輪界は多くの難関を乗り越えて今に至ったが、生前の鈴木は弟子の福島正幸に剣豪・宮本武蔵が遺した「鍛錬の鍛という字は1000日、錬という字は1万日、訓練を続けることだ」という言葉を教訓に徹底的に福島を鍛えた。その結果、福島は19歳で競輪祭の新人王になり、秩父宮妃賜杯、競輪祭、高松宮杯、オールスター競輪など数々のビッグタイトルを制覇し、1982(昭和57)年の競輪祭開催中に劇的な引退をした。
 これらは前述の「上毛新聞」に掲載されているが、私が彼に感動したのは「ダービーを制覇できなかったことが僕に力を与えてくれた」という一言だった。その意味は、タイトルを全部手にしていたら僕は傲慢な人間になったと思う。しかし、獲れなかったので初めからやり直すため、千葉県野田市にある有名な餃子(ぎょうざ)店に住み込みで働き、後日、夫人と共に前橋市内に餃子の店を開店することができ、軽井沢にも店舗を持った。
 そればかりか、今度は80年の伝統を誇る前橋名物の「片原饅頭(まんじゅう)」の後継者がいなくなり、それを受け継いだ店が繁盛(左上の写真)し、大勢の報道陣が取材に来てくれたという。餃子店には前橋競輪を取材した全国の記者や、競走を終えた選手たちが大勢訪れたが、饅頭の方があまりにも忙しく餃子の方は店を閉めたという。残念に思う人も多いだろう。
 それはともかく、引退後の福島は忙しい仕事の合い間を縫ってJKA発行の「月刊競輪」(当時は本にして出版)に「福島正幸の大外一気」という記事を数年間にわたって連載。中野浩一、井上茂徳、菅田順和、坂本勉ら30期以降の選手や大勢のファンが真剣な眼差しで読んだものだった。
 鈴木や福島の話をしていると時間の経過を忘れてしまいそうだが、福島は1976(昭和51)にキングレコードから「バンク人生」というレコード(中央の写真)を全国発売した。これは競輪界初のことでかなり話題になったが、レコードのことを書いて急に思い出したことがある。
 それは1970年代のことだが、日本競輪選手会はそのころ東京の「日劇」や「国際劇場」で何回か「歌謡フェスティバル」を開き、毎回、多数の選手やファンで超満員になった。その4回目(昭和52)の開催でグランドチャンピオンに輝いたのが岐阜の鈴木浩之(37期生=右の写真)で、会場では選手になるより歌手になれば良かったのではという声も出たほどだった。
 後日、鈴木にこの話をして驚いた。というのは、彼は1955(昭和30)年に東京の目黒で生まれ、父親が「淡谷のり子音楽事務所」に勤めていたので「淡谷さんにヒロユキと名付けていただいた」とのこと。だから歌が上手だったのかと感心したものだった。
 その鈴木は、平成10年12月に現役を退き、9年後の平成19年に居住地(岐阜県本巣郡北方町)の町会議員になり、現在は3期目を迎えて副議長に就任。「町のために一生懸命頑張っています」と力強く話してくれた。現役の記者として働いていたころ、全国の市会議員や町会議員になったOB選手を調べたことがあったが、ここでは鈴木副議長の活躍を願って今回の原稿を締めくくりたい。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 80歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。