4月に熊本大地震が発生し悲惨な状況に胸が張り裂ける思いがする。私も1943(昭和18)年に大阪の名所・通天閣の火災に遭遇。2年後の大阪大空襲では自宅が丸焼けになり、疎開先の広島で台風に遭った時は大きな牛の体に巻き付けた縄にしがみついて濁流の中を逃げ、兵庫県西宮市で暮らすようになった後、阪神大震災でもかなりの被害を受けた。
それだけに熊本で被災された方々のご苦労が身に染みるが、つい先日、プロのカメラマンが出産直後の赤ちゃんを次々に写してパネルに貼り、それを公開しているところをテレビで見た。写真は小型だが何百枚も並び、そのカメラマンは10年、20年後にその赤ちゃんや家族が見た時の喜びを想像しながら撮影されたのだろう。この優しさが日本人の性格なのだと思う。
私は1970(昭和45)年ごろから競輪の表彰式、引退式、日本競輪学校の卒業記念などを写して選手らに郵送。時には1982(昭和57)年の世界選手権で優勝した35期生の中野浩一(6連覇した時)の雄姿を小倉や甲子園で展示。以後も地元で活躍したスターを玉野、岸和田、和歌山などに提供した。また、最近では25期生の荒川秀之助が1970(昭和45)年にダービーを制覇した時のものや、23期生の阿部道の700勝達成祝賀会(平成13年)の写真を早坂悟OB(49期生)に送って宮城県の大和場外車券売場でファンの皆さんに見てもらった。
これらの写真は総てフィルムで送り、先方で必要なものを選択してもらうのだが、手元には約5000人の選手の顔写真や、競輪創成期(1948~1950=昭和23~27年ごろ)の全競輪場の初期の成績表(着順)もあり、本場や場外車券売場に掲示すれば、ファンはもとより、選手の子孫や親族も喜んでくれるだろうと考えたことがあった。
だが、展示するには古い競輪場の写真やポスターを使う手もある。例えばここに掲載した「高松宮記念杯」(通称宮杯)の6枚のポスターにも同じことがいえる。これは、走墨(そうぼく)という手法で有名な増永広春(ますながこうしゅん)という女流書家が1988(昭和63)年から約20年、宮杯の開催ごとに創作されたものだ。ここではその紹介をする前に高松宮さまと大津びわこ競輪場の結び付きを説明させていただこう。
滋賀県大津市に「近江神宮」という神社がある。これは、高松宮さまを名誉総裁として1940(昭和15)年に建てられた。その5年後に第2次世界大戦が終わり、神社の外苑に競輪場を建設する話が出、佐藤与吉という人が中心になって工事を開始。滋賀県と大津市が後を引き継いで1950(昭和25)年に大津びわこが完成した。当時、小倉、大宮、西宮などで競輪は始まっていたが、大津は同年4月に第1回高松宮・同妃賜杯を開催。男子は大阪の山本清治(現・日本名輪会員)、女子は16歳の渋谷小夜子(神奈川)が優勝した。
宮杯はその後、女子競輪の廃止に伴って「高松宮賜杯」と改名。1987(昭和62)年に宮さまがご逝去された後、滋賀県知事、大津市長らが妃殿下に拝眉にあずかって存続を願い、「今後も社会に寄与するためにー」というお言葉を頂戴して存続が決定。この年から「青龍賞」、「白虎賞」が制定されたことも忘れがたい。
宮杯の存続を快諾された妃殿下は、それから17年後の平成16年にご逝去されたが、生前から癌(がん)の撲滅に力を注いで「財団法人高松宮妃癌研究基金」を設立。現在は妃殿下の遺志を継いで佐藤進参事(元高松宮家の宮務官)が頑張っておられることも紹介しておきたい。
この話は近畿自転車競技会(現JKA)の30年史をはじめ何回も記事にしたが、宮杯でもう一つ付け加えたいのは車券の売上額が昭和60年(91億円)から14年間、記録を更新し続け、64期生の高木隆弘が優勝した平成10年には351億円に到達した。そのため、宮杯が始まると大津市内のホテルや旅館は常に満員。タクシー会社や商店街も大変にぎわったが、平成11年から6日制の開催が4日制になったため記録は途絶えた。
だが、記録更新中に全国のファンが注目したのは前述の増永広春書家のポスターや垂れ幕ではなかっただろうか。これがどのような筆や絵具で描かれたのか想像もつかないが、総てに迫力ある選手の姿が見え、競輪場正面の垂れ幕をじっと見つめて動かないファンもいた。残念ながら大津びわこ競輪は平成23年3月13日に廃止、現在は場所を移しながら開催されている。
しかし、13期生の高原永伍が優勝した1969(昭和44)年から40余年にわたって私は宮杯を取材。第37回大会(優勝=神山雄一郎)では今は亡き鈴木保巳評論家(下段右の写真の中央)と机を並べてテレビ解説させてもらった懐かしい思い出もある。それはともかく、こうした美しさと迫力で競輪の魅力を全国に訴えてファン層を広げたいものだ。(敬称略)。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 80歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。