特集



 去年の夏、兵庫県内の病院で胃の手術を受けた。そのため、7月まで書かせていただいた「バンクのつぶやき」と、サイクルテレホン事務センター発行の「ウイニングラン」(題字は英文で記載)の原稿をお断りし、半年の間、静養したあと今年の1月に元の体に戻った。
 元気になった途端、急に何か書きたくなった。なぜなら、来年は競輪が誕生して70年、この機会を逃したくないと思ったからだ。だが、間もなく82歳になる老人に何ができるのかと思案している時、日本名輪会員の吉田実氏(以下、各氏の敬称略)の訃報を知り、それを追うようにして夫人も亡くなった。となると、今後、高松競輪で開催される「吉田実杯」はどうなるのか-。
 前置きが長くなったが、去年の3月、岸和田競輪の「第24回石田雄彦記念杯」の開催中のことから話を進めよう。当の石田は前年(平成27年)の11月7日に亡くなったが、故人の冥福を祈り、彼の足跡と栄光をファンに伝えようと松本勝明、山本清治、中井光雄、吉田実ら日本名輪会員らが岸和田の常設舞台に登場。石田の子息(裕紀=42期生=引退)も加わった(写真左)。
 その席で吉田(左から2人目)が、「私は去年の6月、医師から体内にガンが広がり、あと1年の寿命。つまり、今年の6月までの命だといわれています。こんなに元気なのに」とファン笑わせていた。私はその後入院して吉田と話す機会はなく、今年の1月半ば、久しぶりに電話して飛び上がるほど驚いた。
 電話口に出た邦枝夫人は弱々しい声で「夫は49日の法要が済むまで黙っていてくれという遺言を残し、去年の8月20日、82歳で他界。私も家を処分して施設に入り、倉庫にある優勝旗などは廃棄する予定です」とのこと。その過程を紹介する前に吉田とはどんな選手だったのか振り返ってみたい。
 愛媛県出身の吉田は1950(昭和25)年に16歳でプロ入りした。競輪が始まって2年後のことだが、当時から「吉田の名前」は知れ渡っていた。というのは12~13歳のころ「全国自転車競技大会・少年の部」で連続優勝を飾り、プロになるのは時間の問題といわれていたからだ。競輪が全国的に広まったころのことで吉田は「前期生」としてプロになった。
プロ入りするなり彼は稼ぎ続け「好きな自転車に乗ってこんなに賞金が貰えるなんて夢のようだ」といって喜んだという。その吉田が初めて特別競輪を制覇したのは58(昭和33)年の後楽園ダービー(同競輪場は73=昭和48年に廃止)だった。そのレース、私は競輪担当になる前なので見ていないが、ゴール寸前で6選手が接触。吉田の後輪は完全に破損した状態でゴールラインを通過して優勝した(中央の写真と右は表彰式)。
 彼はこの優勝で大スターになり、特別競輪の優勝6回、全プロのスプリント競技で3回優勝、世界選手権大会に3回出場、年間獲得賞金ベスト10に7回(そのうち最高額は2回)も登場するほど活躍した。競輪界にはその前後、大勢のスターがいたが、彼にとって最大のライバルは前述の石田雄彦だった。
 左上の写真はダービーを初制覇したころの吉田夫妻だが、約45年前、私は妻子を連れて四国を旅行し、その時、すでに愛媛から香川県善通寺市に転居していた夫妻の家の近くの「銭形砂絵」(中央の写真)へ案内してもらった。ここは今でもテレビ放映される「銭形平次」の映像に「寛永通宝」と大書された砂文字が有名な所で、以後、夫妻には親しくしてもらって今日に至った。
 それまで、「吉田は大変な酒豪で、風呂の中でも大酒を飲み、それでいて翌日のレースは物凄く強くて怖い男」と聞かされていた。だが、砂絵を見た後、彼の豪邸に招かれ、玄関を開けるなり真っ白い子犬が敷居につまずき、座卓にぶつかりながら吉田の足元に飛びついてきた。見ると、子犬の両眼は白く、ひと目で目の見えない犬であることが分かり彼の優しさを見た気がした。
 また、1973(昭和48)年8月24日、激しい雨が降り続く甲子園競輪で、松本勝明、石田雄彦、古田泰久に続き史上4人目の1000勝選手になり、その功績も評価され、引退後はホームバンクの観音寺競輪で「吉田実杯」(右上の写真)が創設されたのも彼の実力と優しさの成果だと思う。
 だが、現役時代の1984(昭和59)年5月6日、不幸な事故にも遭った。四国地区で開催中の記念競輪の先頭誘導員として走るため自転車で目的地に向かっていた。その途中、免許を取得して間もない19歳の若者が運転する自動車に跳ね飛ばされ、命に別状はなかったものの3年間を棒に振る不運に見舞われ、最後はB級(当時はA級とB級制度だった)に落ちた。
 それでも吉田は、「名声などは皆さんが付けて下さったもので僕から自転車を除けば何も残らない」といって頑張ったが、「競輪史に残る先行選手」と激賞された高原永伍(13期生)と同じ日の平成6年4月8日付で引退した。その時、吉田は59歳、高原は54歳だった。
 左上の写真は、同年5月6日、平塚競輪で開かれた高原の引退式で写したものだが、当日、式典に参加し、高原の背後に立つ吉田(中央の写真)はどんな気持ちで現役に別れを告げたのだろうか。この厳しい表情を見るたびに現役を去った吉田の寂しさを感じたものだった。
 話は振り出しに戻るが、1月の半ば、吉田家に電話して彼の死を耳にした時、夫人は次のような話をしてくれた。「夫が死んだ日、私も救急車で入院。2人は同じ日に葬式をする予感がした。ですが、私は生き残り今後のことは妹夫婦に託し、吉田杯を開催して下さる高松競輪にご迷惑をかけては申し訳ないので倉庫にある優勝カップなどは廃棄するように依頼しました」とのことだった。
 彼女がいう「妹夫婦」とは、吉田の近くに住む永易良文(ながやす・よしふみ=21期生)夫妻のことで、永易の奥さんが吉田の妹にあたり、同夫妻が助力されることになっているそうだ。
 さて、吉田夫人との電話中、「ご主人の偉業は競輪の歴史に残るべきもので、10日ほど時間をください。必ず満足していただける答えを出しますから」と約束。日本競輪選手会の一員として名輪会の世話役をされている職員を通じ、高松競輪の場長や関係団体に相談してもらった。その結果、高松競輪の場長から「吉田実杯を継続し、優勝旗など遺品の陳列場所も考慮したい」という結論が出たと聞いた。(右上の写真は吉田が手にした優勝旗の一部)
 私はそのことを1月23日、吉田夫人に電話したが、何回、連絡しても通じず、永易夫婦に電話したところ「3日前の1月20日に姉は死に、葬儀は兄の時と同様に内輪で執り行いました」という返事。想像すらできない悲劇に「こんな形で人生の終焉が訪れるのか」としばらくの間、涙が止まらなかった。
 以上が吉田の周辺事情だが、その前後、日本名輪会の組織は大きく変化し、会長の松本勝明が相談役、山本清治、中井光雄が副会長に就任。変わって井上茂徳が会長、滝澤正光が幹事になり、佐々木昭彦、坂本勉、山口健治、吉井秀仁、阿部道らOBが新会員として登場。やがて訪れる「競輪創設70年」に向けて華やかに活躍してくれることだろう。そうしたことを期待しながら今後の競輪界の発展と、新しいファンが増え続けることを願い、何か思い立った時に「バンクのつぶやき」の復活原稿を書かせてもらえれば幸いだと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 81歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。