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 大阪府の北東の方角に約8万人が暮らす「交野市」(かたのし)という市がある。地図を見れば東側が京都府京田辺市や奈良市なので分かりやすい。という簡単な前置きをした後、今回は同市にある「磐船(いわふね)神社」(左下の写真)のことから話を進めさせていただこう。
 この神社、創建された年代が分からないほど古いらしく「神代(かみよ)の時代」を連想するような巨岩が点在し、裏側には「天野川」という川も流れ歴史愛好家には魅力的な神社になっているらしい。
 さて、本題に移るが、中央の写真は神社の説明で右側に赤い幟(のぼり)が立ち、幟の下に4つの玉垣が並んでいる。それを拡大したのが右側の写真で、全国、どこの神社でも大勢の人が奉納した金額や氏名が刻まれた玉垣が目につく。この話、競輪とは関係なさそうだが、来年は「競輪創設70年」を迎え、「日本競輪学校」が静岡県内に開校して50年という節目の年にあたり、あえてこのような話題に取り組んでみた。
 玉垣の一番右に「泉竜クラブ」と書かれているのは、井村豊を中心にしたグループが奉納し、左側に畑中友蔵、横山幸男・利幸兄弟ら昭和時代の大阪の選手の名が刻まれていた。これに興味を覚えて古い記録を調べ、日本名輪会の山本清治副会長や柴田俊彦ら同郷の人に話を聞き、少し前には第1回小倉競輪の第1レースで1着になった芥禎男の遺品や、柴田俊彦OB(下段・左の写真)らに頂いた写真を掲載させてもらった(文中・敬称略)。
 その結果、競輪が始まったころ、大阪では自転車愛好者が地区的に集まり、「東亜ライオン」(中央の写真)、「泉竜」、「島野333」、「白鶴」など10組ほど「自転車クラブ」があったことを知った。
 日本で競輪が始まったのは1948(昭和23)年11月20日だが、その直前、福岡県で「国体」(国民体育大会)が開かれ、現在の小倉競輪場の所在地で自転車競技が行われた。右端の写真は競輪開設の17日前(11月3日)に同所で撮影した大阪のアマチュアたちである。
 「国体」は45(昭和20)年に日本が第2次世界大戦で敗退した後、「国民が希望を持って生きていく一つの方策」として翌46年に大阪・京都・奈良の3府県共催で実施。2回目は47年に石川県、翌48年には福岡県で開催。その時、小倉で自転車競技が行われ、終了後、20日足らずのうちに同所で競輪がスタートしたのだった。
 あまりにも慌ただしい展開に、記念撮影をした大阪勢はもとより他府県の選手も「プロになって本当に生活できるのか」という不安を抱いた。そのため、参加者は130人と見込んだ主催者(小倉市・現北九州市)の予想ははずれ「小倉競輪の檜舞台」に立ったプロは104人だったそうである。
 そのため、番組編成担当者は苦心し4車立て、5車立てのレースもあったとか。しかし、戦前から「自転車は日本の輸出産業の花形」といわれ、それに伴って自転車競技も盛んで、「自転車の神様」といわれた横田隆雄をはじめ、柴田博司、紫垣正春らの大阪勢や、兵庫県の河内正一、鍋谷正ら104人の出場者全員の健闘で小倉競輪は成功。以後、ファンは爆発的に増え、それまで、事の成り行きを見つめていたアマチュアも続々とプロ入りし、わずか数年の間に競輪場は63カ所になるほど増えていった。
 70年も前の話なので今では大勢のOBが亡くなっているが、横田は49(昭和24)年に「甲規格」という部門で第1回(大阪住之江競輪場)と、第2回(川崎競輪場)のダービーを連覇。紫垣、柴田博司も両レースの決勝戦に進出した。また、兵庫の河内は「実用車部門」でダービーを7連覇し、戦時中、海軍の潜水艦の搭乗員だった鍋谷も後世に名を残した。
 次に山口県の原田和男(左下の写真)と右側の2枚の写真も紹介しておこう。原田は1929(昭和4)年に生まれ、5歳になった34(昭和9)年、山口県の防長新聞主催の「子供自転車競走」で優勝。立派に成長した後、第1回小倉競輪に出場し「乙規格部門」で優勝している。
 各部門の説明は省略するとして、前回は吉田実が12~13歳で少年レースを制した話を紹介したが、原田はわずかに5歳。それを思うと第2次世界大戦が始まる前、いかに自転車競技が隆盛を極めていたか。遠い昔のこととはいえ、競輪が人気を得たのも自転車産業の繁栄が背景にあったからだろう。
 続いて原田と同じ年に生まれた柴田俊彦(87歳)のことを-。彼は右上の2枚の写真に関係するOBだが、小倉競輪が成功した翌月の48(昭和23)年12月、日本で2番目に誕生した大阪住之江競輪に参加した。彼にとってはプロになって初めてのレース。ところが、その開催中に「進路妨害」で失格と判定される競走をしてしまった。
 自分では、どこで、どんな失敗をしたのか全く分からず、その直後、「プロ選手の中で最初の失格」といわれ呆然として立ちすくんだという。競輪では失格や落車は時々見かけるが、初めてのレースで必死に戦っている時に起きた不測の出来事だと思って自分を慰めたそうだ。
 柴田俊彦は引退後、鉄工関係の仕事を始め、大阪のある警察署から「澪標(みおつくし)の鐘」の設置を依頼された。澪標とは「帆かけ舟」が大阪湾を往来していたころ、航路の安全を願って作られた標識で現在では「大阪市の市章」になっている。余談だが、大阪市は終戦後、乱世の時代を元気に育ってほしいと考えて市役所の屋上に「澪標の鐘」を吊り、「少年、少女の皆さん、午後10時には自宅に帰りましょう」といいながら鐘を鳴らしたと聞いている。
 警察署から依頼された柴田は、大阪・ミナミの「戎橋」(えびすばし)のグリコの看板の横(写真の○印の所)に「澪標の鐘」を造った。使用した鐘は和歌山競輪場で使っていた「打鐘用の古い釣り鐘」(右端の写真)だった。この記事はJKA発行の書物にも記載されているが、場所を「大阪・ミナミ(南)の戎橋」というだけでは分かりにくい。だが、観光客が関西空港やJR大阪駅に着いて「ミナミの戎橋」と聞けばすぐに教えてもらえるはずだ。
 群馬県の栗原健二も似たような鐘(フランチェスカの鐘)を、栃木県北部の那須高原で暮らす戦災孤児のために贈っている。何10年も前の話なので同じ群馬の新井市太郎(奥さん同士が姉と妹の関係)に電話したが、その場所が分からず長い間この話を忘れていたのを残念に思う。
 今回は「競輪創設70年」、「日本競輪学校開校50年」を控えて古い話に終始し、選手の名を知らないファンもおられただろうが、柴田俊彦が所属する「大阪選手会OB会」も来年の春、「50回目のOB会」を開く予定だという。競輪界にはこのほかにも大きな催しがあるかもしれないと思い、あえて昔の話をさせていただいたことを付け加えておこう。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 81歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。