「第68回高松宮記念杯競輪」(以下、宮杯と記載し敬称略)は6月15日、岸和田競輪場で開幕するが、今回は1973(昭和48)年に初めて採用された「東西対抗戦」の番組が復活した形式で行われる。となると、73年に大津びわこ競輪場で初の王座戦を制覇した東日本の太田義夫(千葉)、西日本の大和孝義(山口)の名を思い出すファンもおられるだろう。
「宮杯」は50(昭和25)年に創設して以来、大津びわこ競輪場で開催されたが、平成23年3月に同所は廃止。以後は各地を転戦しながら現在に至っている。そこで、今回は「宮杯の歴史」を書く予定でいたところ、知人から「中野浩一が引退して25年になる。それも考慮して原稿を」という助言。これはもっともな話で「宮杯」と中野の活躍を両軸にして筆を進めたい。
京都と滋賀の府県境に「比叡山」という有名な山がそびえ、滋賀県大津市方面に向かえば天智天皇を祀(まつ)る「近江神宮」(左上の写真)があり、さらに1㌔ほど進むと雄大な琵琶湖に行き着く。昔、このあたりを「近江の国」と呼んだそうだが、同神宮は高松宮様が「近江神宮奉賛会名誉総裁」となられて造営が進み1940(昭和15)年に完成した。
それから9年後、大津市に競輪場建設の話が出、びわこ観光施設株式会社の経営者・佐藤与吉が中心になり「近江神宮の外苑」で工事に着手。滋賀県と大津市が後を引き継いで50(昭和25)年に完成したと聞いている。これで、「近江神宮・高松宮様・神宮外苑に生まれた大津びわこ競輪場」に関するご縁は理解してくださるだろう。
競輪の創設に先立ち、関係者は「高松宮杯」というタイトルを頂戴したいと懇願。高松宮様はこの願いを受け入れて頂き、当時は女子レースもあったことから、完成した年の4月20日、「第1回高松宮・同妃杯競輪」という名称でスタートした。それ以後、高松宮ご夫妻(中央の写真)は大津びわこ競輪場に何回かお越しになり、喜久子妃殿下が田中和子に優勝杯を授与されたこともあったという記録も残っている。
右の写真は、55(昭和30)年ごろに「宮杯」を3連覇した中井光雄と、「妃杯」を4連覇した田中和子が近江神宮に参拝した時のものだが、同レースの開催中、国鉄(現在のJR)大津駅周辺はタクシーを待つファンであふれ、近隣の旅館は超満員になったという。
その後、64(昭和39)年に女子競輪は廃止になり名称も「高松宮賜杯競輪」に改称し、73(昭和48)年には「東西対抗戦」を導入。64年の車券売上額は4億8千万円だったが、東西対抗戦を始めた73年には27億7千万円になるなど物凄い勢いで伸びていった。
「宮杯」の本当の話題はここから本番になるのだが、話があまりにも長くなるため、「世界のナカノ」と称賛された中野浩一を中心に、井上茂徳、滝澤正光らの黄金時代と「宮杯での戦績」に切り替えて振り返ってみたい。
中野は1975(昭和50)年5月に久留米でデビューし、熊本、立川、小倉(初日にA級特進)の4場所を総て1着で通過。以後、記念や特別競輪では常に優勝候補になり、78(昭和53)年7月の福井記念から82(昭和57)年2月の伊東記念に至る62場所は総て決勝戦に進出するという想像を絶する活躍をした。この記録は伊東の後、同年3月の西宮記念の準決勝(失格)で途切れたが、あの時の悔しそうな顔が今でも脳裏に残っている。
こうした活躍をしながら中野は特別競輪を何回も制覇したが、もう一つの功績は1977(昭和52)年から86(昭和61)にかけて「世界選手権大会のスプリント競技」で10連覇したことだ。一般的には「世界選に参加するだけでも大変な名誉」なのに10回も連続で優勝したのだから中野の評価は年ごとに上昇。それにつれて競輪の人気もますます高まっていった。
その間、世界戦で8回目の優勝を飾った直後の84(昭和59)年10月、昭和天皇が主催される「秋の園遊会」(左上の写真)に招待され、天皇陛下から「プロ選手としてどうですか」と、お言葉をかけて頂いた。中野には夢のようなひと時だっただろうが、競輪界にとってもこの喜びは永遠に語り継がれていくだろう。
「秋の園遊会」から8年後の92(平成4)年6月4日、中野に運命の日が訪れた。それは、大津びわこで開催中の「宮杯」の決勝戦でのことだった。対戦相手は井上茂徳、滝澤正光,神山雄一郎、山口健治ら超一流の強敵がそろい、中野は「この1戦でグランドスラム(全冠=特別競輪を総て制覇)を達成するぞ」という執念で戦ったと思う。だが、下段の「宮杯」の成績が示すように滝澤、中野、井上の順で入線。中野はこれを機に引退した。
東京都内で行われた「中野浩一引退披露パーティー」には寬仁親王殿下がご臨席され、「宮杯は惜しかったけど、私のも残念でしたね」と中野を慰められた(中央の写真)。「私のもー」と言われたのは「宮杯」の直前に前橋ドームで行われた「寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント競輪」で吉岡稔真が優勝。中野が2着になったことを慰められてのお言葉だった。なお、この時は世界選手権の記念レースで、「寬仁親王牌」が特別競輪になったのは平成6年の第3回大会からだったことを付け加えておこう。
最後に「宮杯」での中野、井上、滝澤の成績に注目したい。この記録は私のメモで公式記録ではないが、滝澤は5回優勝し、井上は「宮杯」でグランドスラムを達成した。これに対して、中野は競輪祭では5回も優勝しながら「宮杯」を手にすることができず、後に開かれた井上、滝澤、神山の「グランドスラム達成祝賀会」(右端の写真)に参加できなかった。中野自身はもとより、全国のファンも「勝負の不思議さ」を嘆いたことだろう。あれから25年の歳月が流れたが、折に触れて「中野物語」も残したいと思う。
(昭和天皇主催の秋の園遊会や、高松宮様ご夫妻の写真は、以前、競輪関係団体から頂戴したのを掲載させて頂きました)
{高松宮杯での3選手の成績}
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中野浩一(35期) | 井上茂徳(41期) | 滝澤正光(43期)
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76年 | 3344 | ―――― | ―――― |
77年 | 1121(3) | ―――― | ―――― |
78年 | 7111 | ―――― | ―――― |
79年 | 1111(4) | ―――― | ―――― |
80年 | 2313失 | 31427 | ―――― |
81年 | 1111(4) | 1123(2) | 7283 |
82年 | 1落欠 | 8失欠 | 欠場 |
83年 | 1111(3) | 落欠 | 32261 |
84年 | 1111落 | 2133(6) | 21転欠 |
85年 | 317欠 | 113落 | 811(1) |
86年 | 欠場 | 1271 | 513(1) |
87年 | 111(4) | 失11(2) | 111(1) |
88年 | 414(2) | 113(1)=全冠達成 | 111(4) |
89年 | 5落欠 | 112(6) | 213(1) |
90年 | 421(4) | 114(2) | 913(7) |
91年 | 6161 | 1426 | 111(8) |
92年 | 623(2) | 334(3) | 115(1) |
(93年以降の井上、滝澤の成績は省略) |
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 81歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。