特集



 今までに何回か紹介したように来年は日本に競輪が誕生して70年、静岡県の修善寺の近くに日本競輪学校が完成して50年という「おめでたい年」になる。そこで、今回は関係団体から拝借した日本サイクリストセンター(通称NCC=初期の競輪学校=左下の写真)をはじめ、現在の日本競輪学校(中央の写真)や、同校にある宝輪観音(右下の写真)などを紹介させていただこうと思う(文中敬称略)。
 私は1965(昭和40)年から競輪の仕事を始めた。ちょうど30歳になった時のことだ。それまでレースを見たことがなく、何も分からぬまま先輩に連れられて近畿地区の競輪場を回り、最初に覚えたのが「選手には前期生と呼ばれるグループと、1期生以降の2組がある」ということだった。
 前期生とは競輪が始まった1948(昭和23)年から、50(昭和25)年9月、NCCが東京都調布市(京王閣競輪場の近く)に開校するまでにプロ入りした約5600人のことをいう。わずか2年の間にこれだけの選手が集まった訳だが、日本では戦前から自転車競技が盛んだったし、36(昭和11)年のベルリン・オリンピックの出場者がプロ入りしたこと、賞金が良かったことなどが選手の増加をもたらしたのだろう。
 一方、調布市にできたNCCには、1期生から25期生まで約5500人が鍛えられ、多くの逸材が育った。また、昔の女子レースは49(昭和24)年に始まり、54(昭和39)年に幕を閉じたが、その間に1016人がプロになった。参考までに「高松宮妃賜杯」を4連覇した故田中和子を調べると―。50(昭和25)年7月にデビューした田中の全成績は手元にあるが、遺族からいただいた「昭和26年の選手手帳」によると、26年1月の松阪では3日間で2万9000円、3月の岐阜では記録賞、優秀賞を含めて6万1000円と書かれている。私はそれから6年後に就職したが、当時、大卒の本給は1万円程度だったと記憶している。
 この賞金額に世間は注目した。だが、何といってもファンの皆さんが大切なお金を投じる競技だけに制度は厳しく、実戦で15回走って1度も1着になれなければ引退し、後にはさらに厳しい引退制度になった。
 その後、1968(昭和43)年に広大な日本競輪学校が静岡県の修善寺近くの山の中に完成。NCC時代に関係者が奉納した宝輪観音も移された。この観音像は、自転車産業の振興、地方財政への寄与、亡くなった関係者や選手の冥福を祈るなど大切な仏像として安置されている。
 そういえば、東京の日本競輪選手会本部(左上の写真)の仏像をはじめ、いろんな仏像があり、中でも珍しいのは神戸市内の「鵯(ひよどり)墓園」(中央の写真)と、奈良競輪場の観音像(右端)だ。この話、競輪学校には関係ないが、鵯墓園の観音像のすぐ左側には「源平合戦」のころ、源義経が馬を休めた「駒(こま)つなぎの松」がある。また、奈良競輪の仏像は同所が「競馬場」だったころから参拝された「馬頭観音」で、後日、歴史愛好家に親しまれる両観音の説明もさせていただきたいと思う。
 さて、話を1968(昭和43)年に完成した日本競輪学校に戻すが、同校には101名の26期生が入学。8カ月間の厳しい訓練を受けて翌69(昭和44)年4月にデビューし、一躍、脚光をあびた。当時は中学卒業でも応募できたが、入学希望者は年ごとに増え平成6年には実に945人が受験するほど狭き門になった。それほど「燃え上がった」競輪学校だが、注目の26期生は善戦。高知の島田伸也と松本州平が4場所目の松山、高松の両競輪場で同じ日に10連勝してA級に特進した。
 当時はA級とB級の2層制だったが、島田はプロ野球の元西鉄ライオンズの2軍選手から転向。松本は中学時代に相撲部で鍛えた体力で共に同期のトップクラスといわれた選手だった。これを追って長崎の北村英利、神奈川の杉淵孝一、東京の加瀬薫、熊本の矢村正ら10選手が無傷でA級に特進。最終的に特進者は37人になり、A級戦で初優勝を飾ったのは北村だった。
 この時点で私は競輪担当になって4年目を迎えたが、それまで選手の強弱を判断する材料が少なく、選手と翌日のレースの話を取材することも禁じられていて、出走表を見ても◎、○、△印などを付けることができなかった。
 しかし、それを救ってくれたのが26期生だった。というのは、彼らの成績を記録し、各自の強弱が分かれば「自分で予想できる」と信じたからだ。それ以来、競輪学校の卒業記念と小倉競輪の新人王戦を積極的に取材。写真や各自の成績を新聞に書き続け、多くの選手のことが分かるようになった。
 その結果、選手の強弱が分からない人でも、30期生、31期生など、どの期別からでもいいから「強いと思う選手」、「同郷の選手名」などを期別ごとに10人~20人ほど覚える。それを最近の成績と照らし合わせてレースを楽しむと「競輪の推理とはこんなに面白いものかと思いますよ」という記事も書き続けた。
 26期生から本格的に競輪に取り組んだ私は、A級に特進した選手たちと成績の話などをし、茨城の島谷陽三の叔父が私と同じ新聞社で働いていることを知り、後に日本競輪選手会の常務理事として活躍した山口の大和孝義ら同期生の名前や強弱がほとんど分かるようになった。こうなれば、本格的に競輪に取り込むしかないと思いながら現在に至った。
 26期生もそのことを知ってくれたのだろう。彼らが神戸の有馬温泉で開いた同期会に招待された時の喜びが今でも忘れられない。だが、それとは反対に高知の島田伸也が去年の11月20日に死去したのに心が痛む。島田は引退後、高知と徳島に場外車券場を造り社長として頑張ったが、40年ほど前に彼の父親から頂戴した手紙を今でも大切に保存している。次回はその内容と島田の生涯を振り返ってみたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 81歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。