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 1年か2年前、京都府と滋賀県の元選手が合同OB会を開いた。場所は忘れたが、会食の世話をしていたコンパニオンが「私の祖父は競輪選手でしたのよ」といったとか。その時、たまたま1955(昭和30)年ごろの「選手名簿」を持参していた京都の南昇(25期生=左下の写真・以下敬称略)が名簿を開くと、「これが祖父です」と指を差して涙ぐんだという。古い名簿をファンに見てもらえばこのように喜ぶ子孫は大勢いるだろう。
 25期生といえば、大阪で「万国博」が開かれた1970(昭和45)年9月に観音寺で記念を初制覇し、同年11月にはダービーと競輪祭新人王戦で優勝し22歳でスターの地位を確保した荒川秀之助(宮城=中央の写真)が有名だが、南も競輪界に素晴らしい功績を残した。
 南は現役を退いたあと、平成7年に近畿自転車競技会(現JKA中日本本部の近畿支部)に嘱託職員として就職。以後、16年間にわたってプロを目指す若い人の強化訓練を担当。当時、8カ所もあった近畿地区の競輪場で訓練するかたわら、滋賀県の琵琶湖の東岸にある彦根城近くの交通量の少ない道路で何十回も「街道練習」を繰り返し、最終的には約240人を現在の日本競輪学校に合格させる大役を果たして退職した。
 25期生にはまだ多くの話題があるが、1期生~25期生が東京の調布市にあった競輪学校(通称NCC)の卒業生で、1969(昭和44)年にデビューした26期生から静岡県にある現在の日本競輪学校で育った。今回は古い写真を見ながら新卒の26期生に主眼を置いてみた。
 前にも書いたが、私は競輪の「予想」が苦手で、選手の名前、脚質、強弱などを覚えるのに手間取った。だが、26期生以降のB級時代の成績を記録し、今から45年前(昭和47年)に競輪祭の新人王戦を初めて取材したのと、それより4年前(昭和43年)に採用された「新競走得点」を自分なりに活用することで他の競輪記者に追い付けるような気がした。
 今、ファンの皆さんは各選手の実力や最近の成績などのほかに「競走得点」も視野に入れて車券を購入されていると思うが、これは、現在のJKAが三菱原子力工業の菅沼三郎という人に依頼して「新しい競走得点」を開発。前述のように昭和43年から使用されたという記録が残っている。
 それはともかく、26期生のことを盛んに書いていたのを彼らも知ってくれていたのだろう。新人王戦の前検日に「皆の写真を撮りたいね」といったところ、驚くほど集まってくれたのが右上の写真で、同レースの開催中は原稿を書くより写真撮影に時間をかけるほど写したものだった。
 左上の写真は、その時の開会式で選手宣誓をする矢村正(熊本)。その次は同年の新人王戦で優勝した27期生の藤巻清志(神奈川=後に北海道)と、2,3着で入線した大和孝義(右=山口)、杉淵孝一(左=神奈川)。さらに右端は高知の松本州平(左)と島田伸也の順で並べてみた。これらの選手のうち藤巻以外は26期生だが、彼らはどのような戦績を残したのか―。
 「高松宮杯」(当時の名称)を参考にして一つの例を挙げると、矢村は高松宮杯だけで決勝戦に5回も進出。大和、恩田勲(東京=後に熊本)、伊藤健次(愛知)らも何回か決勝戦に進出したが、高松宮杯をはじめ全特別競輪を通じて26期生の中からビッグタイトルを手にした選手はいなかった。
 その中で最も悔しい思いをしたのは矢村だろう。矢村は77(昭和52)年と79(昭和54)年の高松宮杯の決勝戦で、後に世界選で10連覇した中野浩一(福岡=35期生)という最高の目標がありながら、77年は谷津田陽一(神奈川)、79年は荒川秀之助(共に25期生)の前に屈した。
 26期生は72(昭和47)年の競輪祭の新人王戦でも似たような体験をしている。同年の決勝戦は前述の矢村、大和、杉淵、伊藤のほかに竹林秀盛、吉田洋、門馬秀仁、小門道夫(出身地省略)ら8人の26期生に、27期生から一人だけ藤巻清志が参加したが、優勝したのは藤巻。これが勝負の世界の厳しさなのだろう、2着の大和はヘルメットを放り投げて悔しがり、競輪学校の卒業記念で優勝した杉淵も3着になって冴えない表情だった。
 右上に掲載した松本、島田も同じ心境だったと思うが、両選手の名声は地元の高知はもとより四国全体を活性化させる起爆剤になった。それが証拠に松本は引退後の今も兄の吉史(17期生)や27期生の佐々木周と高知競輪場などで競輪界のため、ファンのために尽力していると聞いている。
 そういえば、先に紹介した矢村は、競輪を母体として日韓親善に貢献。大和は山口県自転車競技連盟会長として後進の育成に当たり、恩田も引退後は阿蘇山の周辺で同期生たちが目を見張るような実業家になったそうだ。そして最後に「今は亡き島田」について書き残しておきたいと思う。
 彼はプロ野球の元西鉄ライオンズの2軍選手から競輪に転向。当時の制度でB級戦を10連勝してA級に特進したが、ビッグレースでは特筆するような成績は残していない。しかし、引退後、高知県の南東部に「サテライト安田」(左上と中央の写真)、続いてJR徳島駅の近くの「サテライト徳島」(右上の写真)の設立に全力注ぎ、両場外の社長(晩年は徳島のみ)として活躍したが、強度の腰痛で入院した後、昨年の秋に71歳で亡くなった。あまりにも突然のことで驚いたが、島田家とは次のようなこともあった。
 私事だが、1962(昭和37)年の夏、妻が元気な男の子を出産。私はすぐに妻の両親に伝えて産院(授産所)に戻った。その時、妻は産後の疲れで眠っていたが、赤ん坊の肌着に血がにじみ、直ちに救急車で病院に運ばれ、その日の夕方に死んだ。死因は「ヘソの緒」から大量の血が出たからとのこと。元気で生まれた子がなぜこんな姿にー。信じがたい事実である。
 妻の両親は驚き、「娘に話せば発狂するだろうから、しばらく内緒にしてほしい」という。そこで、私は出産証明書を持って役所に行き、死んだ子を長男として届け出、世の中にこんな不幸な出来事があるのかと嘆きながら何日も何日もかけて妻に成り行きを話し、改めて役所に死亡届を提出し、事実を新聞や雑誌に書いた。
 それから何日かして島田の父親から手紙を頂いた。文面には、「私も終戦の年、4歳になる次女を亡くしました。伸也が生まれて100日ほどたった時のことで、生涯忘れられない悲哀でした。でも、人生は前を向いて生きて行くしかありません。お互いに頑張ろうではありませんか」と。
 それから約半世紀、時は変わっても島田家とは親交を温めてきたが、今年の春、妻を連れて「サテライト徳島」へ行った時、島田夫人は「夫の戒名を書いたお札」を持参して迎えて下さった。私たちは深く頭を下げたが、その時、前述の27期生の佐々木周が社長に昇格して「サテライト徳島」を守るという話を聞いた。今後は前社長の島田の霊が安らかに眠ることを願いながら、競輪の発展と「サテライト徳島」の繁栄に力を注いでくれるだろう。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。