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 少し前、静岡県・修善寺の近くにある日本競輪学校や、東京の日本競輪選手会本部の観音像の説明をし、機会を見て神戸市内の「鵯越(ひよどりごえ)墓園」(通称=ひよどり墓園)と、奈良競輪場の珍しい仏像を紹介したいと書いた。今回はその話から始めさせていただこう。
 新幹線で新大阪駅から九州方面に向かう時、長いトンネルを抜けて神戸市内に入ると、右手に瀬戸内海国立公園の一角を占める「六甲山系」が見え、その中腹に「ひよどり墓園」がある。ここに競輪と関係の深い法輪観音(左下の写真)と、源平合戦で名高い源義経の「駒つなぎの松」(中央の写真)があり、競輪の歴史を振り返りながら楽しいひと時を過ごすことができる。
 記録によると、この法輪観音は競輪が始まって5年後の1953(昭和28)年7月、兵庫県内の競輪施行者、自転車振興会、選手会の3団体によって完成。以後、亡くなった選手や競輪に貢献した人々の霊を弔いながら競輪の発展を願って安置されたという。
 3団体の中で施行者と選手会の役割は分かりやすいが、振興会はレースを円滑に進めるために施行者から「競輪の実施」を委任された団体で、選手管理、自転車の整備、番組編成、審判業務など、競輪を円滑に進める大切な役を受け持った。当時、振興会は各都道府県にあり、兵庫では「社団法人兵庫県自転車振興会」という名で1948(昭和23)年9月に創設。翌49年3月、小倉、大宮競輪に次いで3番目に開幕した西宮競輪が仕事初めになった。残念ながら西宮は2002(平成14)年3月に廃止されたが-。
 後日、各地の振興会は、北日本、関東、南関東、中部、近畿、中国、四国、九州の8ブロックになって「北日本自転車競技会」、「九州自転車競技会」などと呼び、現在は総ての競技会が「公益財団法人JKA」(旧日本自転車振興会)に統合され、オートレース関係もこれに加わっている。
 一方、競輪を主催する各地の施行者は「全国競輪施行者協議会」になり、選手会は「日本競輪選手会」という名称で統一。いずれも経済産業省の管轄の中でより高度な発展と全国各地の福祉活動などに貢献している。
 話は飛躍したが、中央の写真は約800年前、源義経が平家の軍勢と戦う時に休息した所で「駒つなぎの松」といわれ、観音像から20メートルほど左に寄った所にあるのでこの機会に紹介させていただこう。
 昔、源氏と平家が戦ったころ、北の方角から「ひよどり越え」にさしかかった源義経は、「鹿はここを超えるというのに、馬が越えられぬ道理はない」といって自ら山を駆け下り、途中で馬を休ませたのがこの場所だったという。その後、義経は一ノ谷の合戦をはじめ、屋島や壇ノ浦の合戦などで平家を滅ぼしたが、その過程で休息した「松の木」が観音像の側にあるのだ。
 源義経はその後、兄・頼朝に追われて奥州で死去したらしいが、約30年前、津軽半島の竜飛岬の入り口に「義経北行伝説の里・三厩村(みんまや村)」という案内板(右上の写真)を見、北方へ逃亡したという伝説があちこちにあることも知った。竜飛岬は青森競輪場からかなりの距離だが、同競輪場で取材した帰りに訪ねることもできた。懐かしい思い出だ。
 続いて奈良競輪場の「馬頭観音」(左下の写真)を見ていただこう。これは「馬の霊」を慰めるために建てられ、戦時中はここで競馬を開催。戦後に同所で競輪が始まり、1950(昭和25)年には「奈良県営競輪競馬場」といわれていたとか。その後、競馬は廃止されて競輪だけになったが、この馬頭観音は銅像などではなく岩盤に文字が刻まれた珍しい「お姿」で貴重な資料ともいえよう。ぜひ、多くの人に見てもらいたいものだ。
 最後に「お地蔵さん」と松本整(ひとし)=京都・45期生(以下も敬称略)を取り上げた。高校時代、ラグビーに励んだ松本は1980(昭和55)年に適性試験でプロ入りした。適性組は39期生から導入されたが、その後、40期生の清嶋彰一、43期生の滝澤正光らの逸材も適性試験でデビューし、スター街道を駆け巡り、現在もその流れは続いている。
 さて、松本は記念競輪20回、ふるさとダービー(GII)は4回も連続優勝するなど活躍したが、2004(平成16)年6月、第55回高松宮記念杯を制覇した直後、突然、引退した(中央の写真)。45歳の時のことだった。これにはファンの皆さんも驚かれたことだろうが、ここでは「お地蔵さん」にまつわる話を紹介したいので先に進ませていただこう。
 松本はそれより14年前の平成2年4月、静岡県伊豆長岡市で「ミス・あやめ」に選ばれた美人と「京都ホテル」で挙式。披露宴には約170人が招かれ、同郷の先輩・八倉伊佐夫(42期生)が、「天国にいる松本君のお母さんに」といって、松本の気持ちになって作った詩を朗読した。その中にある「周山街道」というのは、彼らがよく練習する京都と福井を結ぶ街道で、紅葉の名所としても知られている。その詩の内容を要約すると-。
 僕と母が歩いた街道。僕と友が走った街道。その街道には「お地蔵さん」が一つ立っていて、苦しい顔、悲しい顔など、いろんな顔になり、周囲の人は「母地蔵」と呼んでいました。今日、僕はその母地蔵に一番大切なことを報告に来ました。
 お母ちゃん、長い間、ありがとう。お蔭さんで、僕はこうして立派な式を挙げることができました。みんな、お母ちゃんのお蔭です。そう報告すると、母地蔵はまるで生きているような笑顔で、「整(ひとし)、良かったね」と語りかけてくれました。
 その時、突然、雨が降り出して母地蔵に当たりました。僕は長い間の思いを込めて母地蔵にそっとタオルを掛け、雨がやむのを待って自転車で街道練習を始めました。すると、周辺の鳥たちのさえずりが「おめでとう」といってくれているように聴こえました。
 僕は思わず、昔、ラグビーで鍛えた大声で「ありがとう。おおきに」と叫びました。思い出の多い周山街道。僕とお母ちゃんの懐かしい昔を心から感謝しながら頑張って生きていきます。
 結婚披露宴の席で、八倉が朗読を終えた瞬間、場内は静まり返ったが、やがて、目頭をぬぐう人、すすり泣く選手の姿が目に止まった。1日として休むことなく練習に励み、それでいて、実戦で失敗した時に場内から罵倒される悔しさ。そうした諸々のことが彼らの脳裏を駆け巡ったのだろう。あの結婚式から27年も過ぎたのに、いまだに当時のことを思い出すのは法輪観音、馬頭観音、そして、町のあちこちにあるお地蔵さんのせいかもしれない。
余談だが、その前後、松本は長岡市内に「コング」(右端の写真)という体力の増強、健康管理などを目的にした施設をつくり、現在はさらに高度な挑戦をしていることを付け加え今回の「つぶやき」を終わらせていただこう。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。