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 今年の10月、愛媛県で「第72回国民体育大会」(国体)が開かれたが、その期間中に幾つか質問が届いた。最初は、「昭和天皇と皇后陛下が、昔、愛媛県の松山競輪場にお越しになったと聞きましたが本当ですか。また、松山以外にもお出ましになった競輪場がありますか」という問い合わせだ。
 昭和天皇・皇后両陛下が愛媛国体にご臨席されたことは、1976(昭和51)年に四国自転車競技会(現在のJKA中四国支部)が発行した「競技会史」に記載されている。従って「それは事実です」とお答えし、下の写真を「競技会史」から引用させてもらった。左は国宝・松山城の天守閣あたりから見た国体開催地周辺。右は競技の一部が繰り広げられたころの松山競輪場のホームスタンドと、背後に美しい松山城を望む風景だ。
 同競輪場は平成16年2月、JR松山駅から一つ南寄りの市坪(いちつぼ)という駅の近くに移築したが、「両陛下は、愛媛以外の国体で競輪場にお出ましになったことは?」という質問には困り果てた。そこで、兵庫県姫路市に在住の知人・柳澤暢秀(のぶひで)氏に助けを求めた。
 柳澤氏は日本史に通じているばかりか、去る7月18日、105歳で逝去した東京・聖路加病院の日野原重明名誉院長主宰の「新老人の会・播磨支部員」として活躍。約30年前から私もいろいろ教わり、今回は姫路市立図書館の「昭和天皇実録」から調べていただいた。
 それによると、昭和天皇・皇后陛下は、1955(昭和30)年10月31日、国体の自転車競技会場となった神奈川県の平塚競輪場にご到着。大勢の関係者の奉迎を受け、同所で行われた1000m速度競走などをご覧になったと記されているという。質問者にはとても喜んでもらったが、柳澤氏がよくもここまで調べて下さったものと感謝するほかない。
 続いて「何か珍しい写真を見たい」という注文がきた。これも難題だが、何枚か用意したので見ていただこう。左下の写真は、日本で一番高いビルといわれる大阪の「アベノハルカス」の側から、堺市へ向けて走る「阪堺線」の電車に描かれた「競輪電話投票加入者募集」という広告。電話投票は1985(昭和60)年に京王閣で始まり、7年後の92(平成4)年の高松宮記念杯から全場で発売されるようになったが、思えば懐かしい写真だ。
 中央は後楽園ドームで「阿波踊り」を披露する場面で、年代は平成5年のサイクルカーニバルか、同7年のアジア地区トラック競技大会だったと思う。ここには競輪を開催できる設備もあり、1973(昭和48)年に廃止になった「後楽園競輪」の再開を望む声があふれたものだった。
 右端は世界最長(3911m)の吊り橋といわれ、平成10年4月に開通した「明石海峡大橋」を祝う「渡り初め式」(同年3月21日)の写真。これは当時の岡田進裕明石市長、日本競輪選手会兵庫支部員らがテープカットした時のもの。本州と四国を結ぶ交通路では「しまなみ街道」が有名だが、明石海峡大橋の開通によって便利さは言葉では表現できないほど大きくなっていった。
 平成10年にはもう一つ珍しい写真(左下)がある。これは、同年7月、小松島で神山雄一郎が「65回目の記念競輪優勝」を飾って表彰台に向かう時、大勢の女性がバンクの中で声援しているところだ。この行事は施行者の小松島市が企画して関西方面の女性に呼び掛け、観光バスで小松島競輪場に招いてレースを観戦してもらうという奇想天外の宣伝だった。参加者の人数は忘れたが、終始、笑顔で見守った女性たちの姿が今も忘れられない。
 中央の写真は、防府競輪場のバックラインの近くに立つ「手作りの3羽の鶏」。この鶏、正面スタンドから見れば小さいが、大きいとか、小さいという視的感覚は別にして、バンクの中に鶏を遊ばせるアイデアが面白い。現役時代、防府記念や石村正利賞を取材に行くたびによく眺めたが、今もその鶏たちはファンの目を楽しませてくれているのだろうか。
 右端の写真は、平成16年と17年に広島競輪場で行われた「お父ちゃんの仕事場」を見学する幼稚園の子供たちだ。最初、園長は「幼児にレースを見せるなんて」と思案したが、最終的にはファンの少ない1Rと2Rを見学。さらに競走中の選手が声援に驚いてはいけないので事前に知らせておくということで実現した。その結果、子供たちは「赤勝て、白勝て、黒勝て」と大きな声援を送り、お土産に小さな菓子袋をもらって帰って行った。園児たちには面白い思い出として心に残るだろう。
 広島の話を続けるが、「同県の佐古雅俊(45期生)は57歳なのによく頑張っている」という声をよく聞く。確かに頑張っていると思うが、同期の三ツ井勉(神奈川)は62歳で健在だし、最近の大きなレース(GIII以上)では40歳代の選手の健闘が目立つ時代になった。では、どんな選手が頑張ってきたか。いつか、そんなことも調べてみたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。