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 2017年も残り少なく、多くのファンは今年の最後を飾る「KEIRINグランプリ」を待ちこがれておられるだろう。私もその一人だが、今年のように各地で大雨による被害が続いた後、一気に冬に突入した年は珍しく、「小倉競輪祭」で快勝した新田祐大(以下も敬称略)をはじめグランプリに出場する選手たちは体調の維持に万全の注意を払っていることだろう。
 そんなことを考えている時、ふっと初期のグランプリを思い出した。同レースは1985(昭和60)年に立川競輪場で開設。35期生の中野浩一が初制覇し、41期生の井上茂徳、43期生の滝澤正光が第2、第3回目の優勝を飾るなど30~40期代の選手が桧舞台に躍り出た時代だ。そのころ、私もグランプリを取材したが、ある時、阿部良二(写真は左から阿部、中野、井上、滝澤)が興味深い話をしてくれた。阿部といえば同郷(岩手県)で同期の加藤善行と共に29期生として大きな成果を残した選手でもある。
 阿部は1975(昭和50)年、ベルギーでの世界選手権大会で日本勢として初めて銅メダルを獲得。翌76年の「小倉競輪祭」ではゴールラインの30mほど手前からガーツポーズをしながら優勝したほど凄い脚力の持ち主で、ある年のグランプリの発走直前、「選手たちはバックラインの所から出て行ってスタートラインに並ぶでしょう。注目すべきはこの瞬間で、最初に敢闘門から出る選手と、最後に出る9番目の選手がスタート地点に整列するまでに1~2分かかりますね。そのわずかな時間に最初に出て行った選手の体は年末の寒さで少し冷えるんです。それをどう克服するか。彼らの体調維持はそれほど微妙なのです」と教えてくれた。中野、井上、滝澤はもとより大勢の先輩、後輩がそんな体験をしながら力走したのだろう。
 寒い季節といえば、38期生の山口健治が86(昭和61)年と、88(昭和63)年の「競輪祭」での優勝も記憶に残る。山口は両レースとも滝澤を目標にして戦い、最初の時は中野浩一、37期生の竹内久人、51期生の本田晴美らを封じ、2着には45期生の佐古雅俊、3着は滝澤だった。
 山口のビッグタイトルは79(昭和54)年の立川ダービーから7年ぶりで2度目だったが、彼の自宅では「競輪祭」の3カ月前に53歳で死去した父親の霊前で、母親が号泣しながら優勝を報告したという。
 左下と中央の写真は、山口が76(昭和51)年の日本競輪学校の卒業記念で決勝戦に進み、優勝した後の表彰式の晴れ姿だが、それ以前から24期生の兄・国男と共に努力した成果が実り、39期生の尾崎雅彦、40期生の清嶋彰一らと共に東京都の中心的な存在となって名を残した。
 ところが、山口には生涯、忘れられないレースがある。それは「競輪祭」を制覇してから2年後の88(昭和63)年、再び同レースで優勝した時のことだ。この日は滝澤も史上2人目のグランドスラムを目指す大切な1戦だったが、レースが始まる寸前に天候が急変。空には暗雲が広がって稲妻が走り、雷とともに雨と雹(ひょう)が音を立てて降り注ぎ、走路は右上の写真のように雪が降り続くような状態の中でレースは進んだ。
 その直後、先頭誘導員がカネ(打鐘)の直前に落車。一瞬、レース中止かと思われたが続行し、滝澤を追走した山口が優勝。井上と滝澤が2、3着で入線したが、全選手の顔色がいつまでもこわばっていたのが記憶に残る。
 今回の写真は総て30~40年も前のものだが、「競輪祭」ではもう一つ、忘れられないことがある。それは、82(昭和57)年のことだが、当時は6日制で4日目に新人王戦、最終日に競輪王戦が行われ、その期間中に「貴公子」とか「人間コンピューター」という愛称で絶大な人気を誇った22期生の福島正幸(左下の写真)が引退するという大変なシリーズだった。
 引退時の福島と現在の生活などはいつか書かせてもらうが、この年の新人王戦は45~47期生が出場。岡山の峰重龍一が優勝し、以下、広島の佐古雅俊、香川の馬場圭一、大阪の伊藤浩ら45期生が上位を独占。峰重の後輩・松枝義幸(47期生)が7着で入線した。
 これは単なる「着順」の紹介だが、ちょっとした問題が前日に開かれた決勝戦進出選手との記者会見の場で発生した。現在は関係団体から許可されているので翌日の作戦を取材し、記事にして読者に読んでもらえるが、当時は他の選手との連携や走法などを取材することは厳しく禁じられていた。
 その、禁じられていることを私たちは聞きたかった。というのは、峰重が後輩の松枝を目標にするか、それとも仲良しの馬場―峰重の両者に佐古が追走するか、松枝―佐古―峰重になるのか。結果は松枝―佐古の3番手に位置した峰重が栄冠を獲得したのだが、それからしばらくして「談話取材」が許された。これによって1番―2番―3番選手の順で走るのか、1番―3番―2番選手で走るのかすぐに分かり、予想記事を書くのも簡単になった。それが最良の方法かどうか分からないが、誰の後ろに誰が追走するのか。その推理に頭を悩まし続けたころの記者生活が今でも懐かしい。
 ところで上の写真説明だが、2人が並んでいるのは右が峰重、左が山口俊哉の岡山勢。右端は左から佐古雅俊、千田剛、三登修二の広島勢。これらは80(昭和55)年の卒業記念で写したものだが、現在では45期生が競輪界で最も高齢になったと聞いた。だからといって全員が残っている訳ではないが、佐古は57歳で健在だし、同期の三ツ井勉(神奈川)は現役最高の62歳だという。参考までに過去の最高齢は群馬県の湯浅昭一で68歳まで頑張ったそうだから45期生以降の選手も踏ん張ってほしいものだ。
 さて今回の最後は、これまでに何回もいってきたように来年は競輪が生まれて70年、静岡県に日本競輪学校が完成して50年になる。それに加え、NHKのBSテレビで初めてグランプリが放映され、函館競輪場で初ナイター競輪が実施されてから20年になるのではーという噂も耳にした。これらが総て本当かどうか分からないが、いずれにしても来年は競輪界にとって輝かしい年になる。そのことを頭に焼き付けて新しい年を迎えたいと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。