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 今回の「月刊競輪WEB」が皆さんの目に触れるころ、第90回記念選抜高校野球大会は大阪桐蔭高の優勝で閉幕したが、この期間、甲子園球場周辺は全国からファンが集い、毎年のことながら大変な賑わいになった。その光景を懐かしみながら古い写真を何枚か見ていただきたい。
 球場の正面入場門の側に、「素盞鳴(すさのお)神社」(左下と中央の写真)という読み方の難しい神社がある。鳥居の右側に見える建物が甲子園球場で、阪神タイガースの関係者も毎年「必勝祈願」しているが、去年の暮れ、北海学園大学経済学部の古林英一教授が西宮市内の我が家に来宅。競輪の資料を見ていただいた後、同神社をはじめ、市内にあった西宮、甲子園両競輪場の跡地などをご案内した。
 実は今から19年前の1999(平成11)年、甲子園競輪場で「オールスター競輪」(優勝は61期生の神山雄一郎)が開かれ、6日間で367億円を売り上げた。当時、立川、静岡、前橋ダービーなどで400億円を超え、甲子園の数字は特筆するほどではないが、オールスター競輪の開幕前、近畿自転車競技会(現JKA近畿支部)の会長らが同レースの成功を祈願して「素盞鳴神社」に参拝。私も取材のために同行、写真撮影は遠慮したが拝殿の一角にある写真を見て驚いた。
 それは、100年以上も前の明治時代の風景で、神社の周辺に家はなく、見渡す限り広々とした苺(いちご)畑と綿畑で現在では想像もつかない風景だった。古林教授も驚かれた様子だったが、神社から1キロほど南にある高校野球の記念碑(右上の写真)にも興味を持たれた。記録によると、高校野球(当時は旧制中学校)は大阪の豊中という所でスタート。第3回から記念碑の周辺で続開し、1924(大正13)年の第10回大会から甲子園球場で開催されるようになったとか。
 私は野球のことは詳しくないが、記念碑に刻まれた「敗者復活戦から勝ち上がった愛知一中が優勝」という説明文を古林教授はじっくり観察された。この記念碑は、昔、JKA発行の雑誌「ぺだる」に「競輪事情」という原稿を書かれていた元毎日新聞の堤哲(つつみさとし)編集委員に聞いた話の受け売りだが、それにしても敗者復活戦から奮起して優勝したとは―。
 その後、古林教授を自宅にお招きし、「公営競技の"拡張"と"縮小"―競輪を中心に」と、「公営競技の誕生と発展:競輪事業を中心に」という2冊の研究書を頂き地元の北海道では、さる報道関係の競馬の予想もされているという。それほどの「公営競技通」にお会いできた幸運に感謝しながら甲子園、西宮競輪の昔話をさせてもらった。
 競輪では敗者復活とはいわないが、失格者が翌日から出走した時代もあった。一例を有名選手から引用すると、35期生の中野浩一は1981(昭和56)年7月、門司記念で失2(1)。41期生の井上茂徳は1986(昭和61)年のオールスター失12(4)。43期生の滝澤正光は旧制度のB級時代の1979(昭和54)年12月に前橋で失1(1)などの記録が手元にある。
 もちろん、これ以外にも初日の失格は多かったが、現在のように失格すれば即日帰郷する規則になったのは平成6年からではなかったか。それはともかく、古林教授には次のような写真などを見ていただいた。
 左上は前述の記念碑の近くに「南甲子園競輪場」が竣工したという新聞記事である。紙面には「日付」がないため、「JKA」の30年史で調べると、1939(昭和14)年に現在の大宮競輪、翌40年に甲子園(当時の名称は鳴尾競輪)が完成したとある。それに従えば中央の写真は、西日本初の競輪場で1周500メートル(600メートル説もある)の走路。さらに内側にはオートレース場もでき、真ん中は大きな池になっていた。
 ところが、そのころから人家が密集しはじめ、騒音を気遣ってオートレースは廃止。1949(昭和24)年に創設した競輪も1969~1984(昭和44~同59)年の15年間は記念競輪の開催を遠慮し、甲子園としては平成11年のオールスター競輪(右上の写真)が最後のレースになった。
 一方の西宮競輪(上の3枚の写真)は、1948(昭和23)年の小倉、大阪、1949年の大宮に次いで4番目に創設。女子レースの実戦もここが最初だった。ただし、それ以後にできた競輪場も含め、西宮が他の競輪場と大きく異なったのは「組立バンク」という特異な走路だったことである。
 当時、西宮はプロ野球・パリーグの元阪急ブレーブスのホームグランドで、競輪開催時にはグランドの上にコンクリートを張ったような300枚ほどの鉄板を組み立て、多い時には6万人を超える観客がレースを楽しんだ。
 それから時が流れ、平成13年11月2日、施行者は両競輪の廃止を決定した。それを聞いたのは23期生の阿部道の「700勝達成祝賀会」を取材していた仙台市の会場でのことだった。あの時からさらに10数年が過ぎた今、西宮は大きな百貨店になり、甲子園はマンションが林立する美しい住宅街になった。その間、どんな事情があったのか。古林教授と話しながら、いつかはそのことにも触れさせてもらわなければならないかもと思った。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。