7月初旬、西日本を襲った集中豪雨で、美しい民家や田畑が巨岩や流木に押し流され、200人以上の尊い人命が奪われた。その被害をテレビや新聞で見るたびに鳥肌が立つ思いがする 。
私も1945(昭和20)年3月、大阪の名物「通天閣」の近くにあった自宅が空襲で丸焼けにされ、母親が育った広島県の山村に疎開した。国民学校(今の小学校)3年生の時だが、その5カ月後に広島と長崎に原爆が投下されて日本は敗戦国になった。
それから約1カ月後、疎開先で豪雨に遭遇。家の近くの「ため池」の決壊を恐れた祖父が、大きな牛の胴体に両親と私たち4人の兄弟を荒縄で結び、濁流にひたりながら田んぼの中を命がけで逃げ出したこともあった。
西日本の豪雨の直後、そんな過去を思い出しながら奥田稔彦(49期生=以下も敬称略)に電話した。彼は今、広島市内で「鍼(はり)や灸」を専門とする「鍼灸(しんきゅう)療術院」の院長として治療に専念するかたわら、スポーツトレーナーとして幅広い活躍をしている。
奥田に電話したのは、数年前、家族と共に兵庫県内の私の家に来てくれたことがあったからだが、今回は豪雨の直後だけに選手らの安否は分からなかった。しかし、彼と電話で話すうちに「今、競輪界で一番古い世代は佐古雅俊(広島)らの45期生ですよ」と教えてくれた。
前にも紹介したが、1968(昭和43)年に日本競輪学校が静岡県に出来て26期生が入学。以後、中野浩一、井上茂徳、滝澤正光ら大勢の逸材が生まれたことはよく知られている。しかし、私には思い出の多い45期生が今では「一番古い期別」になっていたことを知らないのは迂闊だった。
45期生の卒業記念レースは1980(昭和55)年に行われ、兵庫の斎藤哲也が優勝した(左の写真)。その次の写真は左から徳島の鎌倉宏之、香川の馬場圭一、広島の佐古雅俊、千田剛、三登修二。さらに岡山の山口俊哉、峰重龍一の順で、今回は主に中四国の45期生を選んで掲載した。いずれも同年の卒業記念の開催中に写したものだ。
話は飛躍するが、昔、小倉競輪祭は前・後節に分かれ、前節は新鋭が戦う新人王戦、後節は上位クラスの選手が競輪王戦で3日間ずつ別々の日程で行われた。その制度が1979(昭和54)年に改正され、6日間の連続日程の中で新人王戦と競輪王戦を開催。その新しい制度の新人王戦で最初に優勝したのが39期生の木村一利(広島=下段の左の写真)だった。
それから3年後の1982(昭和57)年、今度は岡山の峰重龍一が新人王戦を制覇したが、その開催中に22期生の福島正幸(群馬=下段の2番目の写真)が引退を表明した。福島は「貴公子」とか「人間コンピュータ」という愛称で親しまれた超一流のスターだった。
福島の突然の引退で記者室は慌ただしくなったが、これとほぼ同じ時刻、小倉競輪場の別室では同年の新人王戦の決勝戦に進出した9選手に対するインタビューが行われた。その顔ぶれは、上の写真の馬場圭一、佐古雅俊、峰重龍一のほかに、伊藤浩(大阪)、吉村純一(北海道)を加えて45期生が5人。続いて46期生の野田正、47期生の小磯伸一(福島)、松枝義幸(岡山)、広田淳二(熊本)の3人が名を連ね、翌日の決勝戦では峰重、佐古、馬場の順で中四国勢が上位を独占した(下段の3番目の写真)。
右端の写真は、峰重龍一の師匠(叔父)の峰重和夫(11期生)だが、岡山市・郵便貯金会館での祝勝会に「玉野市の杉本市長も出席して下さった」と物凄く感激していたそうだ。
さて、ここから別な話になるが、新人王戦のインタビューが終わった時、木村一利が「各選手に決勝戦でどう戦うのか。自分の作戦や、どの選手を目標にして戦うのかという問いかけもあったようですね」と私に質問してきた。木村としては後輩の佐古をはじめ中四国勢が多かったし、当時は選手に作戦を聞く(取材する)ことは禁じられていたのを心配したからだろう。
正確な時期は忘れたが、そのころ、選手に対する作戦取材はできなかった。しかし、1981(昭和56)年に車券の売上額が大幅に減少。ファンの間でも「予想が難しくなり過ぎた」という声が急増した。日本自転車振興会(現在のJKA)など各関係団体もそれを憂慮したのだろう。各自の作戦や目標にしたい選手の談話とともに、それに付随した「レースの周回予想」も競輪専門紙やスポーツ紙に掲載することができるようになった。
また、それとは別に1982(昭和57)年に「競走得点方法」が改善され、翌1983年には「S級制度」を創設する「KPK競輪プログラム改革」がお目見えし、選手談話、競走得点、周回予想を参考にしながら「狙い車券」を推理することが容易になったと喜ぶファンが急増した。
それを説明するには膨大な紙数が必要になるので、再び45期生の話に戻るが、引退した選手を除き、同期生の中で現役として頑張る最高齢者は7月22日の高知競輪初日に1着になった62歳の三ツ井勉(神奈川)。これに続くのは58歳の佐古雅俊(広島)、57歳の長谷井浩二(東京)の3人になったようだ。少ないといえばあまりにも少ないが、彼ら45期生が残した功績は必ず後世に伝えられるだろう。
ついでながら、記録に残る高齢選手には群馬の湯浅昭一(68歳)、埼玉の黄金井光良(66歳)、静岡の萩原三郎(66歳)、長野の金子唯夫(66歳)といった「前期生」が頑張っていたそうだ。人間の平均寿命が年ごとに伸びつつある時代だけに若い選手も大いに頑張ってほしいものだ。
最後に下段の4枚の写真は、約半世紀前から使用許可を得ていた競輪関係団体の書物から引用したことを付け加えておきたい。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。