前にも紹介したが、今年は小倉で競輪が始まって70年、静岡県に日本競輪学校が開校して50年という大きな節目にあたる。競輪学校の生徒はまだプロではないので学内で「行事」が開かれると思うが、11月の「小倉競輪祭」ではどんな形でファンを感動させてくれるのだろうか。そんなことを考えている時、20年前に小倉競輪場が「ドーム競輪場」に生まれ変わりつつある時を思い出した。
それは1998(平成10)年の初夏のことだが、新しいドーム競輪場の工事中、施行者の北九州市は「競輪祭」を制覇したスターや、大勢のファンを招いて「旧競輪場とのお別れ会」(左端の写真)を開いた。次の写真はその日、特設舞台であいさつする「競輪祭の覇者たち」(中央は競輪祭V3の福島正幸=群馬、以下敬称略)。次いで第1回競輪祭を制覇した山本清治(熊本)が「発走用員」として競輪祭で優勝した選手たちの模擬レースを見守り、同レースの先頭誘導員が「競輪祭V5」を達成した中野浩一(福岡=右端の写真)だった。
これに続き、さわやかな笑顔で「お別れ会」に参加した下段の4人の写真も競輪祭の覇者で、左から桜井久昭(東京=28期生)、阿部良二(岩手=29期生)、吉井秀仁(千葉=38期生)、藤巻清志(27期生=当時は神奈川)だが、今回は桜井ら28期生の話題を中心にした話をさせていただきたいと思う。
現在の競輪学校の最初の入学生は26期生だが、彼らは特別競輪を制覇できず、最初に栄冠を得たのは1975(昭和50)年7月の高松宮杯での藤巻清志だった。次いで同年9月に29期の加藤善行(岩手)がオールスター、その2カ月後に桜井が小倉輪祭で優勝。翌1976年には阿部、1977年には藤巻と20期代後半の選手が3年連続で競輪祭を勝ち取った。参考までに藤巻の兄・昇も高松宮杯、オールスターなどを制覇。両者は後日、関東から北海道に移籍して力走した。
こうした中で29期生の加藤と同期の久保千代志(愛知)や天野康博(新潟)もビッグタイトルを手にした。現在、加藤は岩手県の富士大学で自転車部監督、日本体育協会公認コーチとして自転車競技の発展に貢献。久保は競輪解説者として奔走中だと聞いているが、彼らはいずれも20期代後半のスターとして名を残し、以後、30期代、40期代の選手が表舞台に立ったのだった。
話を元に戻し、私は1957(昭和32)年に新聞社に入社。8年間の速記者時代の後、30歳なった1965(昭和40)年に競輪担当になり、最初は選手名、出身地、脚質などを覚えるのに力を注いだものの成果は得られなかった。
だが、1968(昭和43)年に新しい競輪学校が出来て26期生が入学。その瞬間、彼らの名前を覚え、成績を記録すると競輪を理解できると確信。連日、26期生の成績を帳面に書き、同期では島田伸也、松本州平(共に高知)ら8選手が無傷で10連勝してA級に特進。その中で長崎の北村英利がA級で初優勝したこともレース面に書いて見ていただいた。
27期生も同じ方法で藤巻清志(神奈川)、小山靖(宮城)、熱海茂(埼玉)らが次々に特進。熊本の清田松記が同期生でA級初優勝したことも書いた。
それから急に競輪が面白くなり「競輪学校の卒業記念と競輪祭の新人王戦を取材させてほしい」と上司に依頼。28期生の卒業記念から10数年間、大半のレースの取材を続け、全員が引退した今でも多くのOBと交友関係にある。
その中の1人が桜井だが、彼はデビューして7場所目の1971(昭和46)年6月、函館でA級に特進。この期間を含め、彼が38年後(平成20年)に引退するまで記念競輪13回と競輪祭という大きなレースを制覇した。
今年の春、その桜井から「次男が結婚しました」という連絡があり、奥さんが描いたという桜井の漫画付き(2番目の写真)の便りが届いた。昔、長女はアメリカの大学に留学中で、次男は高校生だと聞いたが、その子が今では大阪市内の大企業に務め、新婦は私が通った小学校の後輩だと知って驚いた。
大阪には「上町台地」といって市の中心部に10キロ前後(高さは10~30メートル)の高台がある。周辺には大坂城、四天王寺、アベノハルカス、通天閣、生國魂(いくたま)神社(3番目の写真)など名所が点在。同神社の近くに「生魂(これもいくたまと呼ぶ)小学校」(右端の写真)もある。桜井の次男の新婦は同校の出身で、偶然ながら私も70余年前、この学校に通っていた。
当時は第2次世界大戦の最中で国民学校といったが、3年生の時、戦難を避けて大阪と奈良の府県境に3~6年生が集団疎開した。ところが、終戦の年の1945(昭和20)年3月の大阪大空襲で我が家は全焼。両親と4人の子供は広島県に転居した。それから約10年間の悲惨な暮らしは多くの家庭で体験されているだろうが、驚いたことに、生魂小学校も焼け、私たちの世代が同校に在籍したという名簿や証明はどこにもないという。
従って小学校時代の知人はいない。そんな時に桜井家に嫁いだ女性の話を耳にし、私のたった1人の後輩だと桜井久昭夫妻と懐かしい昔話をしたものだ。
この話は競輪とは無関係だが、敗戦後の復興を願って70年前の1948(昭和23)年に小倉で競輪が生まれ、それを機に競輪ファンが増加の一途をたどり、日本の復興にどれだけ貢献したか。もちろん、ギャンブルを敬遠する人も多かったが、娯楽の少なかった時代、大勢の人を楽しませてくれた事実は歴史に残る。
また、28期生には国家試験に合格して柔道整復師になった者や、整体師、鍼灸(しんきゅう)師になったOBが多い。今回、それも記事にしたかったが長くなり氏名のみ紹介しておこう。そのOBとは、斑目隆雄、中軍富次、高野昭一、田中誠、坂東利則、小石孝生、山本善八、長内満、葛谷宣昭、大鹿勇夫らだと思うが、中には結婚などで「姓」が変更した者や、私の記憶違いもありそうなのでもう少し調べてからー。
なお、前回、60歳以上のOBを紹介した中で、金子唯夫の在籍地は神奈川県だったと訂正して今回の締めくくりとさせていただきたい。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。