特集



 ファンの皆さんの手元には届かないが、日本競輪選手会(現理事長=佐久間重光・三重・41期生)は毎月「プロサイクリスト」という会報(新聞)を発行している。競輪が誕生した1948(昭和23)年ごろは希望すれば簡単に選手になれたそうだが、今では静岡県の日本競輪学校で厳しい訓練を受けて卒業し、同選手会の会員になればレースに参加でき、会報も各選手の手元に届けられる。
 そこで、1952(昭和27)年4月号の会報を開くと、この年に選手会は「日本プロサイクリスト連合」という名称から「日本競輪選手会」に変更。全国の競輪施行者や日本自転車振興会(現在のJKA)と共に競輪の発展に力を注いだ。
 その結果、競輪は爆発的な人気を呼び、プロ野球、中央競馬と共に隆盛を極めた。もちろん、会報もそうした状況を報じ、施行者やJKAとの各種の交渉事項をはじめ、ビッグレースの開催場と出場者、競走得点制度、級班別の制定から全国8ブロックにあった選手会の状況を克明に掲載して今日に至っている。


 左の写真は1951(昭和26)年4月に発行された同紙の創刊号の題字。右は今年11月号の「2020年の東京五輪」へ向けて頑張ろうという決意を秘めた紙面だが、創刊から70年近い今日まで「落車や失格を皆無にするよう努力しよう」という記事が随所に書かれてきたことが記憶に残る。
 周知のように競輪には落車や失格が多いと思う。従ってレースを見守るファンは、必勝を期して特定の選手の車券を買ったのに、その選手が落車した瞬間の落胆とか、上位で入線しながら失格判定で購買車券が「ただの紙切れ」に終わった時の心境。その悔しさとわびしさはフアンの共通の嘆きだった。
 しかし、選手自身も落車した時の痛みや、失格したことで対戦相手やファンに迷惑をかけたことの反省と苦悩。それに加え、落車した選手の家族の不安や完治するまでの治療期間とか回復後の体調の維持も気になるところだったろう。
 少し前、そうした厳しい状況を28期生の桜井久昭(東京=以下敬称略)と、29期生の加藤善行(岩手=共に特別競輪の覇者)が、「28期生には自己の体験を生かして整体治療の職業に就いた人が10名ほどいる」と教えてくれた。
 前回に続きその氏名を紹介すると、山本善八、高野昭市(宮城)、斑目隆雄、中軍富次(福島)、長内満(東京)、葛谷宜昭、大鹿勇夫(愛知)、坂東利則(兵庫)、妹尾誠(旧姓田中=岡山)、小石孝生(大分)らがそれに該当する。


 紙数の関係で全員の紹介はできないが、斑目(左上の写真)は兄・秀雄(24期生)と共に大学時代から世界の桧舞台で活躍。当の隆雄は1968(昭和43)年の世界選手権(タンデムトライアル競技第1位)で日本の学生間で歴代最高の記録を樹立した。ところが、プロ入り後の落車を機に早い段階で引退。その後、骨折、骨肉、関節、脱臼などの治療に必要な教育(2年間=現在は3年間)を受けて国家試験に合格。今では柔道整体師として現役選手をはじめ大勢の人の治療に心血を注ぎ、治療を受ける人たちにとても喜ばれているそうだ。
 斑目のことを書けば前述の加藤(2番目の写真)も紹介しなければなるまい。両者は自転車に精魂を傾けた日大時代の同級生で、加藤は地元の高校教師になったが1年後に競輪に転向。1975(昭和50)年にはオールスター競輪を制覇し、現在は岩手富士大学自転車部監督、日本体育協会公認コーチとして若い世代の育成に当たっている。
 その後、全員の写真を探したが、山本善八、中軍富次、葛谷宜昭らが見当たらず、3番目~5番目に高野昭一、長内満、大鹿勇夫の順で掲載した。これらの中で中軍は1971(昭和46)年4月16日、小田原競輪の初日に10連勝を達成し、当時の制度で同期生では最初にB級からA級に特進。翌4月17日、斑目が青森競輪で2番目の特進選手になった。
 だが、ナイターで実施された先日の小倉競輪祭の初日。25期生の荒川秀之助(宮城)が「高野とは同じ高校に通ったが、彼は整体関係の仕事をしていなかったのでは」と教えてくれた。荒川は1970(昭和45)年の「大阪万博」の年に岸和田ダービーや小倉の新人王戦で優勝。一気に有名になったが、東日本大震災で家は津波で流され、自身は首まで海水につかりながら生き延びたOBだ。
 少し余談が混じったが、右端の大鹿は、整体治療に励むかたわら「聖林寺拳法」にも力を入れ、今では後進の育成もしているそうだ。私は整体師や鍼灸師(はりや、やいとの治療)になるための勉強や試験などは知らない。だが、この道を選んだOBたちは自分らが落車した時の治療方法に感謝しながら、それ以上の技術を身につけるよう努力して治療に当たってきたことは高く評価されるだろう。


 左上の写真は妹尾(旧姓田中)で、彼は早い時期に高い技術を会得し近隣の人たちに評判になった。2番目の写真の右から2人目は彼の父・田中平太郎だが、父親は1936(昭和11)年にベルリン五輪に参加。戦後、競輪が始まるなり「登録番号20番」の選手として第1回小倉競輪に出場したとのことだった。
 この写真は以前、妹尾にらもらったものだが、約10年前、これをスポーツ紙か何かに掲載したところ、父親は涙を流して喜び、それから数日後、100歳で亡くなったと聞いた。私にとっては生涯忘れられない話である。
 3枚目は、右が坂東、左は45期生の斉藤藤哲也で、右端に小石を掲載した。両OBとも懸命に治療に当たっているとのことだが、坂東と斉藤は子弟関係にあり、弟子の斉藤は1980(昭和55)年に競輪学校の卒業記念で優勝。引退後も競輪の評論などで活躍したが、去る11月2日、病気で他界した。師匠の坂東と共に近畿地区では著名な選手だっただけに惜しまれる死去だった。
 次は整体とは関係ないが、去る11月11日、会津若松で東日本の28期OBを中心にした会合があった。幹事は大学時代にアジア大会や箱根駅伝で活躍した佐藤幸男(東京)で、同期のOB会はすでに18回も開いているそうだが、今回は「東京五輪」が開催される2020年は、28期生が競輪学校に入学して50年目にあたり「記念のOB会は熱海温泉で」ということになったらしい。
 出席者は、幹事の佐藤幸男をはじめ、村上守正、佐藤正、斑目隆雄、三好真人、山本善八、渡辺賢二、桜井久昭、井上三次、伊藤強、松坂文雄、柴田義夫(旧姓加藤)に近畿から木内稔も参加した。ここでは出身地を省略したが、オールドファンはこれらの選手の名を思い出しながら当時のレースを懐かしく思い出されるのではなかろうか。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。