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 今年の正月4日の早朝、コメディアンや俳優として活躍する大村崑(以下も各氏の敬称略)の若い時代の苦労話をNHKラジオで聴いた。彼は1931(昭和6)年に神戸市内で生まれ、近くにある「新開地」という繁華街を中心に懸命に努力し人気が上昇していったという内容だった。
 彼より4歳年下の私は、高校入学から6年間で速記を覚え1957(昭和32)年に22歳で大村崑の出生地と同じ神戸市内の新聞社に入社。プロ野球や芸能関係の記者らが取材先から電話で送ってくる原稿を速記。それを通常の文字に書き直してデスクに渡し、その記事が翌日の紙面に載るといった仕事をしていた。
 当時、大村が所属する団体と本社の野球担当記者が兵庫県の西宮球場の側で親善野球をした。左下が当時の写真で背景の鉄塔周辺が西宮球場。それと同じ場所で西宮競輪が開かれ最盛期には8万人ものファンがレースを楽しんだという。
 ついでながら、前列の左から4人目が大村で、その右にバットを持っているのが運動部で2番目に若かった私だ。常識では絶対に座れる位置ではないが、野球用具の整理係りだったので先輩たちが花を持たせてくれた貴重な宝物だ。
 その後、何年かして新人歌手の山本リンダ(右下)が来社。芸能記者の取材を終えた後、一緒に写してもらったが、この写真を参考にして「挿し絵の担当者」が描いてくれたのが題字の所にある漫画だ。これを見た家内は「前歯の部分を書き直すよう頼んで下さい」とつぶやいたが、いつの間にか、ファンの皆さんが私を見て「漫画の井上だ」と言って声を掛けてくださるようになった。
 しかし、そこにたどり着くまでが大変だった。競輪担当になったのは入社から8年後の1965(昭和40)年で、先輩から「少しでも早く選手の名前と脚質を覚えるように」と指示された。それは百も承知していたが、5000人もいたという選手の名前や強弱を覚えることなど到底できるものではない。
 それでも、6年がかりで速記を会得したころを思い出して真剣に取り組み、2年後の1967(昭和42)年に「特ダネ」を記事にしたのが転換点になった。以下の話は何回か紹介したが、同じ年の昭和42年、ある競輪場で埼玉の福島昭亮(12期生=30歳)が落車。耳から血を流しながら病院に運ばれたと聞いて彼の死を直感。病院に何回も電話して亡くなったことを確認して記事にした。
 なぜ、そんなことをと思われるかもしれないが、その5年前(昭和37年)に我が家に男の子が誕生。出産後の疲れで家内が眠っている時、赤ん坊の産着の臍(へそ)の周辺に血がにじみ、救急車で運ばれた病院で死去した。「あっ」という間の出来事で、家内の両親は「娘に話すと発狂するので少しの間、内緒にしてほしい」と言い、もらったばかりの出産証明書を区役所に持参し、死んだ子供を長男として届け、1週間ほどして家内に不幸を伝えてから死亡届けを提出した。この悲惨な事実が「福島選手死亡」の特ダネ記事に結び付いたのだった。
 以後、我が子の死を偲び、選手の事故を防がねばと思って本格的に競輪に取り組んだが、依然として競輪を覚えるのに苦労した。そんな時期に静岡県の日本競輪学校から初めての卒業生(26期生=教育期間8カ月)がデビューした。福島選手の死から2年後の1969(昭和44)年のことだった。
 それから50年の歳月が過ぎたが、私は26期生から新人がデビューするたびに出身地や氏名を新聞で紹介。これに続いて3回も4回も全員の成績や10連勝してB級からA級(当時の制度)に特進した選手も次々に紹介した。その結果、新人選手を知る小・中学校の同級生や友人はもとより、故郷を離れて遠い所で就職した人たちも新人に注目。大勢の人が新聞を開き、自分が知っている知人や、同郷の新人選手の成長を願って競輪ファンになった人が増えたと聞いた。
 その過程で1976(昭和51)年の39期生の入学試験から「適性検査制度」を採用。この年の試験で他のスポーツに精を出していた若い世代が22人も合格。今、日本競輪学校の校長として生徒を指導する滝澤正光(43期生)もその1人だが、世界選手権で10連覇を達成した中野浩一(35期生=新制度以前の試験で合格)らと共に一時代を築いたことはあまりにも有名である。
 ちなみに、中野浩一は1975(昭和50)年5月に久留米でデビュー。4場所目の8月に小倉でA級に特進。一方の滝澤は4年後の1979(昭和54)年4月に大津びわこで161着(2日目は落車入線)。A級特進は9カ月後に花月園で達成するなど少し出遅れたが、以後の活躍は永遠に語り継がれるだろう。
 話は飛躍するが、こうした記録や競輪の予想記事に取り組んでから10年を過ぎたころから、大津びわこ競輪場での「高松宮杯」をはじめ、近畿地区の記念競輪のテレビ解説や競輪相談など(上の写真)を何回かさせていただいた。
 その時は手元の記録帳から、吉岡稔真(以下、出身地や期別は省略)がデビューして1年11カ月、高橋健二が2年5カ月で特別競輪を初制覇したことを説明。以下、荒川秀之助、中野浩一、井上茂徳らが3年から4年。滝澤正光、神山雄一郎が5年から6年。長い年月を要したのは山田裕仁の10年4カ月。さらに長いのは16年も頑張ってタイトルを手にした内林久徳のことなども話した。
 もちろん、記念競輪の解説時は上位クラスの選手が、今、何回、記念で優勝しているか、「ここで勝てば何回目の優勝」ということも詳しく説明した。
 また、これとは違って加藤慎平(81期生)が平成12年に和歌山で初めて記念を制覇し、昨年11月のお別れレースも和歌山という記事も記録に残したい。
 今回は自分勝手なことばかり書いて申し訳ない気持ちがしてならないが、本当に言いたかったのは「選手のことを知れば知るほど競輪が面白くなる」ということをファンの皆さんに知っていただきたかったからにほかならない。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 82歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。