月刊競輪WEB|KEIRIN.JP
私のターニングポイントVOL.1
私が28年の現役生活を引退し、早一年が経ちました。
今までは現役選手として誰にも負けたくないという想いと裏腹に、力だけでは勝てない競輪の面白さを体験してきました。
デビューした当時は華の65回生!と言われ吉岡稔真選手を筆頭に海田和裕選手、山本真矢選手と競輪界の新時代を築いて来ました。
私もデビューした当初、新人リーグではデビュー戦優勝。そして若鷲賞。A級デビュー戦優勝。一年でS級へ昇級しました。
S級に上がっても決して満足する事なく常に自分にプレッシャーをかけて精神的にも肉体的にも追い込んで過ごして来ました。それは同期生には絶対に負けたくない!という想いと誰よりも目立ちたい!という気持ちが強かったからです。
「有言実行」という言葉がありますが、私は常に周りが驚く様な事を取材やメディアで口に出して言ってしまう事を何度もして来ました。その真相は「出来なかったらただのビッグマウスで情けない人間!」自分を常に崖っぷちへ追いやるのです。
当時は吉岡稔真選手が競輪界のスーパールーキー。
21歳でグリーンドーム前橋で行われたGI日本選手権を優勝!衝撃を受けました。強さのレベルは違いますが、私も負けじと宇都宮記念GIIIを24歳で初優勝し、その年からGIへ常に出場する様になりました。
同期の海田和裕選手が立川競輪場で行われたGI日本選手権を22歳で優勝するという活躍ぶり、そのレースに同乗していた私はGIの決勝戦に乗って満足している場合ではなかった事に運の良さを感じています。
しかし中々同期の二枚看板に私の名前が並ばない現実!
当時【YKK】吉岡・神山・海田と言われた競輪界でしたので、私はどうしたら【後閑信一】の名前が世に出るのか??ばかりを考える様になりました。
当時、私の戦法は〝先行捲り〟しかし私の先行は打鐘から1周半をカマシて逃げてどこまで持つか?くらいの先行で、同期の吉岡選手、海田選手、山本選手に比べたら完成度の低い先行でした。
私は高校時代、スプリントでインターハイや都道府県大会、国体と優勝しています。バンクを上手く使って斜行・蛇行をしてからのスピードを生かしたレースが得意でした。常に目立ちたい!ファンから人気を得たい!と思っていた私は、「ライバル吉岡選手、海田選手、山本選手には出来ないレースをしてみよう!」と思い、先行、捲り、追い込み、全ての戦法をするようになりました。
しかし、何でも出来る!と言っても、成績に表れないと「ただの中途半端」でしかなく、そうならない様毎レース必ず〝見せ場〟を作るレースを心掛けました。
するとレースで脚が付き、ファンの皆様からも熱い声援を頂ける様になってきました。結果は表れ記念競輪GIIIを2回、3回と不思議と優勝出来る様になって来たのです。その頃は力と点数が上がるばかりで、私は栃木県・神山雄一郎選手と同じレースに乗る機会が増える様になりました。
神山雄一郎選手の名は高校時代から有名で、私が憧れていた方です。デビュー後もすぐにS級1班に上がり特別競輪の常連となり、決勝戦も常に先行をして滝澤正光選手や吉岡稔真選手と戦っていました。
滝澤正光選手と吉岡稔真選手は「豪快!」のイメージ。神山雄一郎選手は「スマートでシャープ!」というイメージでした。私も早くあの舞台へ!という想いは日に日に強まりました。
そして私に競輪人生1回目のターニングポイントは訪れました。
それは25歳で名古屋G2共同通信社杯競輪の決勝戦で、同期の吉岡稔真選手の3番手に乗って優勝したのです。
その優勝で私は「追い込み宣言」!
そして私はマーク屋として戦法を変えて、先行選手の番手を主張するレースをする様になったのです。そこには先を見据えたビジョンがありました。
それは神山雄一郎選手との連携です。
これからGI特別競輪で名を売るには常に神山雄一郎選手とラインを形成する事が必至となる。神山といえば後閑!という神山-後閑の四字熟語をしっかりとファンの皆様と競輪関係者の皆様と選手に印象付けして行く事に力を注ぎました。
マーク屋の世界は厳しく、しっかりと道理や筋道を立てて勝たないと認められない世界!自力の時とは違い、あらゆる言動や態度に油断が出来ません。常に先を見据えた主張を考えながら日々の生活を送っていました。
そして思い出に残っている事は、宇都宮で地元・神山雄一郎選手の後位を私と山口健治選手と伊藤公人選手の三人が顔見せからジカ競りし、三車併走で取り合った事です。
そんな修羅場を経験しながらも神山雄一郎選手に食らいついて行った結果、記念競輪ではいつも同じ競輪場への斡旋が来て、全国のファンの皆様からも歓迎され、喜んで頂き神山-後閑が定着し、記念競輪GIIIやGII、特別競輪GIの決勝戦でも最終オッズは神山-後閑で1.0~1.1倍の圧倒的な人気を集められるまでになっていったのです。
今でも嬉しい思い出は年末のKEIRINグランプリで、締め切り直前に私が目にしたオッズが後閑-神山が一番人気になっていた瞬間でした。
今回の月刊競輪WEBでは私の20代のターニングポイントの話を綴って来ましたが、選手の皆さん必ずターニングポイント・転機が訪れると思います。次回は私の30代でのターニングポイントの話をしたいと思います。