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太田真一と児玉広志と神山雄一郎の奇縁のバラッド
6月12日からの伊東競輪に、太田真一(埼玉75期)と太田龍希(埼玉117期)、師弟且つ親子の二人が一緒に参加していた。息子のデビュー戦に父が付き添う?粋な配分であった。資料に見たお父さん瓜二つの息子龍希選手の写真が微笑ましかった。新世紀2000年生まれ、デビュー時の満年齢も父とおなじ19歳である。父真一が一気にスターダムにのし上がったのは1999年だったから、その翌年に授かった子だということを知り一気に記憶が遡ってゆく――。
世紀末の1999年、太田真一は6月の高松宮記念杯、年末の競輪グランプリと、二つの大レースの覇を制することになるのだが、その2つの競走ともに2着は児玉広志(香川66期)であった。更に両レースを走っている神山雄一郎(栃木61期)の「5着」「3着失格」という結果を附記しつつ、当年の太田、児玉、神山の「奇縁」をフィーチャーしたい。
6月4日の大津びわこ競輪場、「第51回高松宮記念杯」の太田真一と神山雄一郎は別線での闘いとなった。並びは神山マークに東出剛(千葉54期)、山田裕仁(岐阜61期)-山口幸二(岐阜62期)-内林久徳(滋賀62期)-郡山久二(大阪55期)の中部近畿、太田-波潟和男(東京57期)の埼京には児玉という初手の隊列。神山が一旦は誘導員を切ったもののスロー、山田が上昇してもピッチは上がらない。要は誰もが太田の逃げ待ち? の展開に近かった。太田が正攻法に入った時の隊列は中団に山田以下の中部近畿、8番手になった神山があと1周で踏み上げると、同時にスパートした太田と波潟の車間が若干離れたか、神山のカマシは追い上げマークに変じた。満を持し仕掛けた山田の捲りは神山がしっかりブロックして止める。太田は堂々逃げ切り歓喜の初戴冠、児玉が空き気味の内を厳しく衝いて「2分の1車身」差の2着だ。神山はさすがに力尽きたか5着に沈んだものの、中々に凄味が伝わる競輪であった。只まだその時点で、今日の神山の凄まじさが、半年後の大一番にて、太田にとって大いなる援軍となることを、誰もが想像できたわけではない。
12月30日の立川競輪場、「競輪グランプリ1999」の太田真一と神山雄一郎はしっかり関東筋でラインを組んだ。打鐘手前から太田-神山-山口幸二で押さえると、併せ上昇の小倉竜二(徳島77期)が神山の内懐に入り番手勝負に出た。まだスピードは上がらず3番手以下も判然としない併走だ。あと1周で吉岡稔真(福岡65期)-小橋正義(岡山59期)がカマシを打つ。ぐ~んとピッチが上昇する。神山が早めに番手位置をキメるべく厳しく寄せると小倉は落車、場内が大きく響めいた。神山の動揺は? しかし、すぐ隣にはもう渾身の吉岡が居る。が、その捲りをきれいなブロックで「料理」、息つく暇もなく次は金古将人(福島67期)のドンピシャの捲りだが、これも完璧にブロックしてしまう。そのまま4角からメイチの神山、粘りに粘る太田、インコースをズブリ突いた児玉広志のゴール勝負は、太田の優勝、児玉が「4分の1輪差」2着、僅差3着ゴールの神山は無念の失格(小倉との競りが「外帯線内進入」と裁定)という結末であった――。
豪の先行に柔のマーク。横紙破りの競りに痛烈なブロック。加速度のバトルとも表せる鮮やかな捲り……。競輪の華と呼ばれる要素がふんだんに詰まった2つのドラマに通底する「先行の太田」「競りの神山」「内衝く児玉」を"スリー・コード"などと記せばやや突飛であろうが、♪カントリー・バラッドならハ長調の「C」「F」「G」、Eの♪トーキング・ブルースなら「E」「A」「B」――。3人の千両役者により、味わい深い「二話」が織りなされたたあの年から、早20年の歳月が流れた。