月刊競輪WEB|KEIRIN.JP
長く遅いエスカレーターを昇ると、そこは花月園競輪場だった。
数年前、京都~八瀬口~比叡山~坂本口~琵琶湖の行程で小旅行をした。山頂付近に設置された双眼鏡――硬貨を入れるとガチャンと作動する昔ながらの代物――でたしかあの辺りだろうと大津びわこ競輪場を探したが、閉場してすでに十年近くが経っているのだから、あろうはずもない。
吉岡稔真(福岡・65期)と神山雄一郎(栃木・61期)で入った高松宮記念杯は何年だったろう。あの決勝の日の午前中、私とEさんは坂本口から比叡山にあがり、ちいさくなった大津びわこ競輪場を見おろしていた。自転車がバンクをくるくる回るのを視認できた気で今でもいるが、記憶はやや怪しい。
よもや「宮杯のびわこ競輪場」がなくなるなど夢にもおもわなかった。と、記せば大甘のセンチメントにすぎるのだろう。平成期にはほかにも、花月園、一宮、甲子園、西宮、観音寺、門司と計七つの競輪場が閉場廃止となっているのだから。
門司競輪場と観音寺競輪場には残念ながら訪れたことはない。ふとおもいだすのは門司の出張といえばかならず手を挙げた同僚Kのことだ。門司港の風情をえらく気にいっていた。話はそれるが、大宮だか川口のショッピング・モールでハワイ風ハンバーガーなるものを一緒に食した折、門司港のアメリカン・バーガーはこんなもんじゃない、と真顔のKに力説された。
西宮競輪場は「震災復興特別競輪」の仕事で一回行っている。はじめて目のあたりにした野球場の中に位置する競輪場に、なんだか楽しげな雰囲気を受けたものだ。真冬の仮設の記者席のせいかどうか定かではないが、風邪っぴきの散々な出張となった。開催の目玉は地元の澤田義和(兵庫・69期)だったはずで、澤田の記事を書いた記憶があるようなないような。
甲子園競輪場は、当地最初で最後の特別競輪の開催となった、「オールスター競輪」の時に出張している。この開催は台風の接近に見まわれて一日日延べすることになるのだが、なんと中止順延の当日の現地は快晴だった(もちろん諸々の判断での決定は承知している)。一日暇をもらったのだから観光にでも出かければよかろうと、悪仲間数人は昼前から夜半までずうっと麻雀だった。
一宮競輪場は仕事でも遊びでも数回訪れているはずだが、現場の記憶は薄く、自宅で見た、地元の高橋健二(愛知・30期)優勝のオールスター競輪がこの上なく頭に残っている。前田義秋(栃木・52期)-東晃(神奈川・45期)と野原哲也(福井・51期)-鈴木勝(奈良・45期)の二車二車が仕かけあい、中野浩一(福岡・35期)-高橋健二-高橋美行(愛知・33期)-藤巻昇(北海道・22期)-高村敦(北海道・35期)の五車でひと捲り。大くぐりには淡泊な競輪に類するのかもしれないが、――「中野が地元の高橋兄弟のために・一肌脱ぐ」「中野の捲りはわかっちゃいるけど・先行にこだわる若手」「結局は切り替えなし・終始本線に味方することになった藤巻と高村」――諸々の凝縮された競輪の旨味ゆえの名勝負として筆者の記憶のフィルムに強く焼き付いている。後日の『サイクルにっぽん』(当時テレビ東京系にて週一で放送されていた競輪を扱った稀有のレギュラー番組)では、前田と野原(ともに一宮オールスターが初めての特別競輪決勝進出であった)をライバル物語ふうに扱っていた。録画したその回のVHSのテープの背には「一宮オールスター・高橋健二優勝」と記したのだったか。
大津びわこ競輪場廃止の報に触れた時はもちろんショックだったが、それ以上に花月園競輪場がなくなると聞いた折の落胆は大きかった。
人生で初めての競輪場は京王閣か立川のどちらか、三番目は西武園でまちがいなく、おそらく四番目が花月園だ。競輪場の「メッカ」川崎より先に花月園だったのにさしたる理由はない。川崎と花月園は客筋がちがうからとバイト先のWに云われていたので、若干緊張していたかもしれない。鶴見駅の改札を出、競輪場側に降りると乗りあいタクシーが見えたが使わず、車の行き来が多い国道の脇を、はじめての景色にきょろきょろしながら歩いた。後年、予想紙の仕事に就いてからほどなく先輩に、競輪場から広大な総持寺の敷地内を通り鶴見駅に至る、近道も兼ね・目の保養にもなるという行程を教わった。
花月園で忘れられない競輪は?と問われれば、小川博美(福岡・43期)が優勝した平成元年のダービー(日本選手権競輪)と即答するだろう。あとにも先にも、あの時の小川の捲りをこえる、「捲り一発の画」なるものを、筆者は見たことがない。小川は六番車、七番車には佐藤仁(秋田・58期)が居り、五枠は穴党の食指を動かす枠でもあったと記憶する。
あとは地元の高木隆弘(神奈川・64期)が井上昌己(長崎・86期)の大バコでまわりながら差せなかったオールスターかなぁ。
花月園は高台に作られた競輪場である。
約四十年前、鶴見駅から歩き来た国道を、表示に従い右に折れると、飯屋を兼ねた一杯飲屋が数件あり、それを横目に見ながらだらだら坂を昇る。お兄さん新聞ありますかと売り子の女性に声をかけられた。少し先のエスカレーター乗り場の手前には、「サイクル」「小田競」「赤競」各紙の屋号を掲げた台が並ぶ。長く遅いエスカレーターを昇ると、そこは花月園競輪場だった。入場門をはいってすぐの建屋に瓶ごと温めた牛乳を売る店があり、買って飲んだ。
第四コーナー付近の売店では、最終手前の第九競走あたりから呼び売りがはじまった。白い発泡スチロール皿に盛られる「握り飯とフライ」「握り飯と煮込み」に食欲が烈しくそそられた。
あっという間に百円定食を平らげ、手の中の幾枚かの車券を見、ポケットの中の小銭を手指で数えながら、花月園競輪場二センター金網傍、痩身の若者が第十競走の発走を待っている――。