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ドリーム・レーサー今昔
 56,232票と14,368票。
 のっけから数字を二ついきなり出されても当惑されることだろう。
 どちらもオールスター競輪恒例のファン投票で第一位に選出された選手の獲得票数であり、前者の五万六千余票は平成元年の中野浩一(福岡35期)、後者の一万四千余票は平成30年の新田祐大(福島90期)のものだ。ま、平成期三十年の競輪界を、様変わりした投票の効力(過去には出場権利そのものをも懸けた人気投票だった)と方法(手書きの葉書時代からインターネット併用と激変した)――しかもトップ当選者の数字比較のみ――でおもんばかるのは避けるが、それでも、一抹の寂しさを感ずるのは否めない。
 しかしまあ、手元の資料を見ていると、中野浩一の人気の絶大さにはあらためておどろかされる。
 時が上がっても下がっても中野の一位選出の数は突出している!
 昭和52年(偉業と讃えられる世界自転車選手権スプリント十連覇。その記念すべく初優勝の年だ)に初のナンバー1に選ばれ、翌53年も同様にトップも、54、55年は藤巻昇(北海道22期)に首位の座を譲り2番に甘んじた(当時の藤巻の人気も凄まじいものがあったのだろう。筆者にはリアルタイムに当時を語れる資格はないが、数年後、特別競輪のテレビ中継などで、寺内大吉氏、中村敦夫氏らの解説猛者陣が一様に、「藤巻がどうするかですよね、このレース」と繰り返すのを半ばドキドキしながら聴いていた記憶がある)。
 昭和56年に再び「ナンバー1」に返り咲いた中野は、以降引退するまで(平成4年春の高松宮杯(現在の名称は高松宮記念杯)の決勝2着がラストランなので平成3年が最後の投票対象となる)トップ選出の座を護りつづけた。なんと11年連続。合計では13回の筆頭という不滅の大記録である。
 不運にも中野時代ゆえ1位選出が叶わなかった銘々の名に哀愁を感じたりもするが、ふと、これまた立派な記録だろうと感心したのは、昭和60年から時代をまたぎ平成3年の6年間、判で捺したように中野一位には滝澤正光(千葉43期)の2位なのである。昭和から平成、君臨する王者と肉薄する怪物の構図がしっかりあらわれているではないか。
 中野引退の年、つまりは中野が居なくなったオールスター競輪のファン投票第1位は、6年間涙を飲みつづけた滝澤ではなく、彗星の如く出現した吉岡稔真(福岡65期)だった。以後平成8年まで吉岡の「五連覇」と相なるわけだが、内3回の2位選出に滝澤である。数多のタイトルを手中におさめ、今も語り継がれる怪物レーサーたる滝澤が、ファン投票ナンバー1にだけ縁がなかったとは、まさに運命は数奇である。
 競輪界が吉岡・神山雄一郎(栃木61期)時代を迎えたことは、平成8年から13年の投票結果が如実に示している。六年間に及ぶ両者の「ワンツー」は、トップ投票の座も仲よく3勝3敗とお見事だ。僚友の数々の名勝負を想いおこす。この期間とはややズレるものの、平成4年から平成10年の競輪祭は忘れられない平成4,5,6年と地元吉岡が3連覇で気炎を吐くと平成7,8,9年は神山のきれいな3連覇返し。「さぁ神山4連覇か、吉岡意地の阻止か」と盛り上がった10年は、先行態勢の吉岡が自ら神山の捲りを止め逃げきったがなんと1着失格。陳腐な文言を許してもらえるなら、まさに「競輪は筋書きのないドラマ」であった。
 中野時代から中野・滝澤時代、そして吉岡・滝澤時代に吉岡・神山時代なるものが大くくりにあるとして、ファンの人気投票がそれを判明させていたのだとしたら、興趣は増す。平成14年以降は群雄割拠といえばいいのか、前述のような極端な傾向はもう見られない。もちろん吉岡人気は暫くつづき、次から次にキラ星が名を連ねるのもスポーツ界の必定である。ここでは紙数の関係で平成後半期のスター連の列記はせずとするが、意外だったのは山崎芳仁(福島88期)と浅井康太(三重90期)に1位選出がないこと。で、二人ともオールスター競輪はしっかり優勝しているのがまた面白い(山崎は6位と15位選出時の2回、浅井は19位選出時に1回)。
 さてさて散り散りに話題迷走、表題の「ドリーム・レーサー今昔」からはやや的はずれとの指摘もあろうけど、どうぞご寛恕を乞い願いたく……。
 時間が経てば経つほど、浮き立つ競輪も(が)在る。