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「令和の時代」に昔を回顧
 去る4月30日、東京の「皇居・宮殿」で天皇陛下の「退位の儀式」が行われ、翌5月1日、新天皇の「即位式」があって「令和時代」の幕開けとなった。
 それまで、高齢者の方々に「明治は遠くなりにけり」といって100年も前の話をよく聞かせてもらったものだが、日本はこの新しい「令和時代」に向けてさらに進歩を遂げ、ますます世界平和に貢献する国になっていくのだろう。
 そんなことを考えている時、ふっと、競輪創設者らはどんな目的で設立行動を起こしたのかと思った。関係団体には貴重な記録はあるが、それを紹介するには膨大な紙面が必要で、ここでは、第2次世界大戦が終わって3年後の1948(昭和23)年6~7月に衆参両院で自転車競技法案が可決。同年11月、小倉市(現北九州市)で競輪が始まったことを前提にして話を進めてみたい。
 戦後で娯楽の少ない混乱期、競輪は瞬く間に全国に広がり5年間に63も競輪場が出来、爆発的な人気に支えられて車券の売上額は上昇。地方財政に貢献するかたわら自転車産業の振興、体育事業に対する支援などにも力を注いだ。
 それから30年ほどたったころ前期生の勝見節男(兵庫・以下敬称略)に、「師匠(鍋谷正=兵庫・登録番号31番)からの贈り物」といって鍋谷の履歴をはじめ開設直後の後楽園、川崎、西宮競輪などの専門紙(予想新聞)を頂戴した。
 上の写真はその一部だが、鍋谷は自転車競技法案が可決するなり「兵庫県サイクル選手会設立準備案」を作成して選手を目指す人たちに公開した。写真では分かりにくいが、驚くほどの達筆と素敵な内容は現在でも十分通用する。また、私たちの世代には分からないが、鍋谷は戦時中、水兵として潜水艦に搭乗するかたわら国内の自転車競技大会で何回も優勝。さらに戦後はプロになり「競輪通信社」が1950(昭和25)年に発行した「大相撲を真似た番附表」では西の関脇にランクされるほどの実力者になった。下段に掲載したこれら昔のスターを覚えているファンは大勢おられるだろう。
 残念なことに鍋谷は私が競輪の仕事に就く前(1962=昭和37年)に引退したので一度も会ったことがなく、顔写真も撮影できなかった。しかし、遺品として残る数々の記録や初期の専門紙は後世に残る貴重な財産だと思う。
 また、当時と今の貨幣価値は分からないが、1955(昭和30)年には日本名輪会前会長の松本勝明(京都)が380万円の年収で賞金王になり、25年後の1980(昭和55)年には「世界V10」の中野浩一(福岡)が1億円を突破。続いて井上茂徳(佐賀)、滝澤正光(千葉)も1億円の大台に乗り、平成時代に入って神山雄一郎(栃木)をはじめ2億円台の選手が続出した。
 ここまで筆を進めた時、突然、31期生の村田一男(埼玉)の笑顔が脳裏をよぎった。31期生は1973(昭和48)年にデビューしたが、日本競輪学校を卒業する前、徳川家康が名付けたという静岡県袋井市の「可睡斎」(かすいさい)という寺(左下の写真)で彼らは精神面の訓練を受けた。その時、初めて村田の名前を知り、取材しているうちに「素直な生徒だな」と思った。
 中央の左の写真はビッグレースでファンに紹介される村田(右は34期生の鈴木正彦=栃木)だが、彼に魅力を抱いたのはプロ入り後、手元に届いた手紙の文字が非常に綺麗な上、最初から最後まで1字も乱れていなかったからだ。
 その後、村田の師匠は同県の斉藤正夫(4期生)で、長男の斉藤徳正(53期生)や、徳正の妹が青木健悟(56期生)と結婚したことを知ったが、亜細亜大学のバレーボール部で活躍した青木夫妻の長女が今年、118期生のテストに合格。師匠の家族はもとより女子競輪の間でも話題になるだろう。
 再び村田の話に戻るが、彼はビッグレースなどで目立つような記録を残こせぬまま2004(平成16)年に引退。新聞広告を見て株式会社トヨタエンタプライズ・東京警備部に入社(本社は名古屋市)した。その直後、自分より先に後輩の神戸透(栃木=43期生)が入社しているのを知ったが、村田の上司は彼の仕事ぶりを見て「引退した選手を採用したい」といってくれたそうだ。
 そこで、日本競輪選手会埼玉支部や東京支部を紹介。その後も茨城、千葉、神奈川支部にも相談に行かれ何人ものOBが採用されたとか。参考までに期別や出身地を省略し50期以降の就職者を何人か記すと、長井伸一郎、里見政浩、福田匡史、平沢正治、鶴岡孝之、工藤広太郎、古川孝行、関根大悟らが働いているという。本来なら会社名やOBの氏名は遠慮すべきだが、あまりにも素敵な話なので関係者の了解を得て書かせてもらった。
 また、この記事を書く前、戸ヶ崎文男、伊藤博、桜井久昭、松塚俊一、仁礼正人、築地孝修、続谷好利OBらの写真のほかに楽しそうな顔写真ももらったが、ここでは7人が並んだ右上の写真を掲載させてもらうことにした。
 この写真は何年前のものか忘れたが、大宮記念の開催時、引退した茨城や埼玉の先輩たちが記念に撮影したもので、左から工藤元司郎、黄金井光良、高倉登、今井正、渡辺幸平、村田一男、新井正昭の順で並んでいる。
 工藤は1970(昭和45)年にダービーを制覇し現在も評論やテレビで活躍。高倉は18、19歳でダービーを連覇した逸材で、こうした写真を見るたびに私は現役時代の思い出が脳裏を駆け巡り、これから競輪を楽しもうと思う皆さんにも、ぜひ、心に残る競輪を積み重ねていただきたいものだと思う。
筆者の略歴 井上和巳 昭和10年(1935)年7月生まれ 大阪市出身 83歳 同32(1957)年 デイリースポーツに速記者として入社 同40(1965)年から競輪を担当 以後、定年後も含めて45年間、競輪の記事を執筆 その間、旧中国自転車競技会30年史、旧近畿自転車競技会45年史、JKA発行の「月刊競輪」には井川知久などのペンネームで書き、平成14(2002)年、西宮・甲子園競輪の撤退時には住民監査請求をした。